Sunday, December 31, 2006

Execution of Hussein

This is the 'justice' of US.... But what people are thinking?

from Wikipedea
India: "We had already expressed the hope that the execution would not be carried out. We are disappointed that it has been." – Minister of external affairs Pranab Mukherjee
Japan: "We have acknowledged that the judgment has been made according to due process and pay respect to the legal procedures that the Iraqi government has taken. That said, what is most important in our view is to make this sentence not a new source of conflict but of reconciliation between the Iraqi people."[36] — Foreign Ministry Spokesman Tomohiko Taniguchi
Malaysia: "The international community is not in favour of the hanging and questions the due process that took place. We are surprised that the hanging went ahead notwithstanding. I think there will be repercussions. This is not the answer" - Foreign Minister Syed Hamid Akbar
Thailand: Kitti Wasinondh, a spokesman at the Thai Ministry of Foreign Affairs, said, "We are optimistic that it will not lead to any further violence." Former Thai Foreign Minister Surin Pitsuwan, a Muslim who served under the Democrat Party, said he expected the execution would increase tension in the war on terror because of Saddam's many followers.
South Africa: "South Africa remains convinced that his execution is not the panacea to the current political problems in Iraq, but could fuel violence in an already volatile situation," said Ronnie Mamoepa, the foreign affairs spokesman.
Austria: "Austria has always campaigned against the impunity of people in the highest positions of political responsibility and supports the effort for an effective international penal jurisdiction. At the same time Austria rejects the death penalty as a matter of principle and stands for its worldwide abolition. This applies without exception and cruelty of the committed crime. Saddam Hussein's guilt in oppressing his own people, the assassination of political enemies and innocent civilians is undoubtedly documented. However, Austria's stance against the death penalty also applies in this case." - Austrian Ministry of Foreign Affairs Press Release
France: "France calls upon all Iraqis to look towards the future and work towards reconciliation and national unity. Now more than ever, the objective should be a return to full sovereignty and stability in Iraq. France, which like the rest of its European partners advocates the universal abolition of capital punishment, notes the execution of Saddam Hussein on Saturday. That decision was made by the people and the sovereign authorities of Iraq." — French Foreign Ministry
Germany: "Saddam Hussein was sentenced by an Iraqi court, and this verdict has been executed. We do respect this verdict. However, it is known, that the Federal Government of Germany is against capital punishment. On a day like this, my thoughts are foremost with the many innocent victims of Saddam Hussein. I do wish for the Iraqi people that it will find its way without violence and in peace." — German chancellor Angela Merkel
Netherlands: "It's understandable that Saddam Hussein received the most severe punishment under Iraqi law. Nevertheless, we are opposed to the death penalty, which is inhumane and barbaric; even in Hussein's case, the sentence should not have been carried out." [65]Deputy Prime Minister Gerrit Zalm
Portugal: "The Portuguese Government reaffirms its total opposition to death penalty in all cases and circumstances."
Serbia: "We have seen that the situation in Iraq is chaotic. I am afraid this might cause even worse consequences. Serbia strongly objects to the death penalty. Calls against execution made by non-governmental organization such as Amnesty International should have been accepted"[70]Minister of Justice Zoran Stojković
Switzerland: "Saddam Hussein was a criminal, but the DFA disapproves of his execution. ... Switzerland advocates the abolition of the death penalty in the context of both its multilateral and in its bilateral diplomacy."[72]Federal Department of Foreign Affairs press release
Russia: "Regrettably, repeated calls by representatives of various nations and international organizations to the Iraqi authorities to refrain from capital punishment were not heard. Saddam Hussein's execution can lead to further aggravation of the military and political situation and the growth of ethnic and confessional tensions."[69]Foreign Ministry spokesman Mikhail Kamynin

Saturday, December 30, 2006

心が通う時、ほっとする

韓国人の友人Hにあい、彼女の家にいって食事を作って食べた。例によってそば(今回は人参+白菜)と、鳥とタマネギを甘辛く煮たもの。鶏肉は、もものところで、でも例によって骨はそのまま(おそらくオーブンに入れて焼くことを想定されている)なのでフンとかハンとかいいつく肉をそいで切る。 喜んでくれて良かった。韓国では男性は普通料理をせず、ただデンと構えて待っているそうで、彼女の友人が日本人の彼氏に初めて家に招かれたとき、料理を作ってもらってやたら感動したらしい。

warsawであまりにも人とずっといすぎたせいか、wienに来てしばらくまともに人と向き合って会話してなかったことも相まって、口が過ぎるぐらいあれやこれや話す。ルームメイトが何を言っても理解してくれず、自分の言葉を通じて相手の心に届かないのかと本当に愕然とした思いを感じていたから、自分の考えを喋り、相手が応え、そうして互いの心が通っていく瞬間に本当に嬉しく思う。自分の言葉は死んでいなかった。よかった。ずっと心配していた。

日本ではPerforming Artsを「舞台芸術」と訳している。これは間違いでないのか?という最近の疑問を話す。ヴィジュアルアートにおけるPerformance Artは、まずそれ自体に歴史が在り、またそれとは別にダンスの歴史が在り、後者が前者に対して影響を与えて混濁した状況が存在しているのが現在のコンテンポラリーダンスなのではないか。という話をすると、「私たち(韓国)はヨーロッパを追いかけてヨーロッパの言葉を持ってきたけど、その意味をちゃんと理解していないのではないか」と返される。何となく、それとして、運んできて、よく分かってないのに、分かった振りをして使っている。彼女は例として、「コンタクトインプロヴィゼーションのジャム、とかパートナリングとか、私たちはそれをそのまま(訳さず、同じ音を用いて)使っている。でも誰がその意味を知っているんだろう。」考える(考えだす)ことが大事なのだと同意する。

「でも何処から考えたらいいんだろう」という彼女に、「僕は哲学を勉強していて、でもそれは哲学を学ぶことが大切ということではなくて、ともかくも哲学を学ぶことから、考えること、どうであれ、自分のペース、リズムで、自分なりに考えることが、ともかくも新しい示唆を与え、それ自体はクリエイションとして成立しないけれども、クリエイションをとても助けることになる」と応えたら、「そうか、じゃあ何もやってもいいんだ」と喜ばれる。(こういうずいぶん抽象的な概念を伝えられるようになってきたというのは、少しでも英語を喋るのに慣れてきたんじゃないかなぁ。)

前後するけれども、それから、ともに、自国の若手を育てず、大御所アーティストを海外から呼ぶことに金をつぎ込みまくっている自国の文化政策を嘆く。いくつかの他のアジアの国の方が、たとえそれが「モダンだ、コンテンポラリーでない」とか、どういわれようが、ともかくも自分たちの価値観を提示しようと必死で、それに対してその周りがしっかり支えているのではないか。そちらのほうがいいなぁ、と共にうなずく。

友人は本当に大切だ。友人がいて、彼・彼女が頑張っているから、自分も頑張っていける。何が大事って、やっぱりそれが一番大事だ。ただ偉そうなことを言って、偉そうな態度をして、それに群がる人からえさを与えられて生きてくようには絶対になりたくない。

凄い嬉しい

僕が来たときにはオーディションが終っていた(死ぬほど悔しがった)、ウィーンのスカラーシップに、友人のAが受かっていたと知る。凄い嬉しい!! どこにも友達がいるのっていいなぁ…
僕も頑張らなくちゃ!!

Friday, December 29, 2006

youtubeはやっぱり偉大だなぁ

bruce nauman remake »bouncing in the corner«
これは"parole"の冒頭で使った。
Bruce Nauman - Stamping in the Studio
Bruce Nauman ARTE NAPOLI MADRE

やっぱり60年代/70年代のアートちゃんと勉強しなきゃだめだな。
この前京都に帰った時、先生にヨーロッパの最近の状況を話したら、「なんだそれ、Cageとかの時代に戻っただけじゃん」ていわれて、ははぁ。
(そういえばErwin Wurmをみにいったとき、先生が参加されてたころの京都のDというカンパニーは、本当によく勉強されていたのだな、としみじみ思った。)

メルロ=ポンティからベルクソンへ−言語論の場合−

武蔵大学のwebで清水誠先生の文章がよめるのです。
大学の内部雑誌用の文章なのかしら?
ともかくこういうの公開してくれるのって助かる。
全部よんでないけど、とりあえず2ページ目までから抜き書き(コピペ)。

凄く分かり易い。有り難い。

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こうして「語は意味を持つ」(le mot a un sens) として「持つ」という観点から語について語り、語に内在する一種の力能を認めるならば、物的身体と精神との中間にあって両者を媒介し、主客対立図式を乗り越える立場を得ることができるであろう、とメルロ=ポンティはするのである。

引き続いて彼は、この経験は「閃光のように瞬間的なものであるが」、表現(expression)の実践によって我有化(approprier)することができることと、対象の命名(denomination)はそれの再認(reconnaissance)の後で生じるのではない、命名と再認とは同時に性起するのであり、両者はただ理性的(ratione)に区別されるだけであり、つまり同じ事態であることとを述べている。これらはいずれも事柄が知性直観の問題であることを示している。もっとも、知覚対象の「命名がそれの再認そのものである」とメルロ=ポンティは言うのであるが、これは知覚対象を包摂(subsumer)すべき概念が精神のうちに先在し、それが恣意的に名前と結び付くというのではなく、「語が意味を孕む(porte)」という意味である。

なにゆえに本来的な例が求め難いかと言えば、そのためには初めて言表されるべき言わば正統(autentique)なパロールとそのようなパロールに基づく二次的なパロールとを区別しなければならないからである。というのも、「語が意味を持つ」という命題が当てはまるのは前者のみに限られるからである。換言すれば、通常の経験的言語活動についてこの命題が主張されているのではないのである。ということは、言語論的脱構築の結果として提出されるであろう範疇表の形が、カントの提示した純粋理性のそれと大差ないものになる可能性があるということである。

したがって改めて提出されるであろうその表の資格についての解釈問題を別にすれば、重要な係争点としては、生まれ出ようとする状態(a l'etat naissant)にある未曾有の思想における、言葉と概念との後先関係の問題だけであると言えるのではなかろうか。

新たに生まれる思想の本質とは言うまでもなくそれの意味であるが、その思想の存在とはその言葉なのである。意味が先にあってそれの言葉が考えられるのではない。その言葉はその意味と同時に生まれるのである。言葉と意味との後先関係はどうかと言えば、両者は厳密に同時である。それどころか、言葉のうちに内在する意味、言葉に住み着く(habite)意味においては、言葉が先に立つかのように思われる。その言葉なしにはその意味は少なくとも完成しないのである。それは新しく創造される言葉であるから、新しい意味である。

これによって言われることは言語表現が持っている調子(トーン)とかアクセントとかの理解が、意味の基本的理解の初期的段階であるということである。これらはいずれもベルクソンが感覚=運動的(sensoriel-moteur)と呼んだような、意味の感性的理解が悟性的理解に先行しこれを基礎付けるのでなくてはならないということを言っているのである。それが感性的理解に基礎付けられた悟性的理解であってこそ、或る「言語表現が意味を持つ」ということが起きるのだというのである。この点に関してメルロ=ポンティは、言語表現と音楽や絵画における表現との間に差異を認めないのである。

われわれは音楽において楽器の素音は音楽的意味行為の素材であって音楽的意味と素材としての楽音とはレベルを異にすると言ったばかりであるが、音楽のなかに一度組み込まれた以上は、楽音は単なる素材であることを止め、その音楽の意味と不可分になるのである。音楽的意味が楽音に受肉するからである。絵画においては絵画的意味が絵の具に受肉する。同様に、演劇において役者が入神の演技をする場合には、役者は消えて役が現象することになる。

これらの場合と同様に言語表現においても、記号(signe)を意味作用(signification)が食い尽くすことになる。そして「語が意味を持つ」のはそのときなのである。記号としての語は意味を表象するのでも翻訳するのでもなくそれを現成するのである。即自存在としての語が対自存在化するのである。のだから、意味は語の外に超越的に存在するのではない。語に内在しながらそれに生命を与えるのである。語は意味の即自=対自存在にならねばならないのである。「パロールは思惟の衣服ではなくて、その身体である」と言われる所以である。

やがてバンヴェニストが論証するだろうように、 各国語体系が示す全体論的性格は、各国語体系内における語の能記と所記との有縁性を帰結するのである。したがって、例えばイヌとdogとの等価交換可能性を意味するような普遍的思惟(pensee universelle)は存在しない。またこれの換喩である規約的思惟(pensee conventionnelle)の典型たるアルゴリスム(記数法)は人間不在の自然を表しているが、これとても言語活動を通じて人間に関わる限り、すでに絶対的な意味では規約的ではないのである。「こうして厳密に言えば、規約的記号は存在しないのである。」

これらの諸言明が明示して余りあるように、『知覚の現象学』時期のメルロ=ポンティ言語論にはソシュール記号論の影響は皆無である。ソシュールの思想とのそれの関わりについては、『シーニュ』以降のテクストについて見なければならぬであろう。

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デリダが死んだのは2004年だったことを思い出しました。昨日のことのようで、もう2年もたつのです。

単語の暗記

に便利なソフト、いつのまにかver.あがってて使い易くなっている。
ProVoc

語彙ファイルは、Schuljahr 5というのが、ドイツ語初心者むきっぽい。多少は出来ないとあきるし。勉強頑張ろ。

Thursday, December 28, 2006

Erwin Wurm展

ついにいきました。MQ
よかったというか、勉強になった。やっぱりものの可塑性(記号としても)について、凄い遊んでいて、またその可塑性自体をちゃんと分かり易く提示しているところとか、大御所のアーティストの仕事ってやっぱりしっかりしてる。太った家のオブジェの中に入ると、3Dエフェクトかけてアニメーション化されたその家が、「私は家か、家なのだろうか。家であれば外に在るべきだ。何かをまもるべきだ。いや、アートなのだろうか。アートだ。建築家によって、あるいはアーティストによってつくられたアートだ。」みたいにひたすら自問自答する映像が流されている。これは、「ものに語りかけられる」という現象学的なアプローチをすごいわかり易くヴィジュアル化しているように感じた。差異(太っている)によって、ものに絡みとられていく。すごいなぁ勉強になる。
でもヴィジュアルアーティストの仕事をみるとやっぱり、眼の見えない人にはどうアプローチできるのだろう、と、当たり前のことなんだけど、どうしても頭に引っかかりつつ見ることになる。
同時にやっていたPop Art and Conceptual Artは、もともとそんなに好きでもないので、まあウォーホルとかラウシェンバーグの作品とか、生では見たことあまりないからヘーとか言う感じで一応みただけ。でもJohn Cageの講義(Lecture on Nothing)とか、オブジェま(Not Wanting to Say Anything about Marcel2)であって、へーCageってこんなこともしてたんだなーと。だけどコンセプチュアルアートの類いは、もうひたすら文章ばっかりで、これってあまり見る人にむきあってないような印象で、楽しめなかった。
Bruce Naumanの作品が夏に来たときはあったので、まだないかなぁと思ったけど、なかった。残念。Naumanの資料を探したい。

今日もcafe blueorange。明らかにすいている。コーヒーまずいからだろうな。でも店員のお姉さんがいつも優しい。ホッとする。

Wednesday, December 27, 2006

やっぱり人の暖かさっていいよね

コーヒーはまずいけど店員が優しくてネット使えるカフェ。やっぱ人の温かさって落ち着く。クリスマス休暇のせいで、2日間そとにあそびにこれなかったから、息付ける。
ペンパル応募はさらに2通きて、あまりの効果に驚く。でも授業無いときにドイツ語を読む機会を与えられるのは、本当に励みになり助かる。のんびりマイペースで続けよう。

と思ってたらまた一通きた。もういい加減無理だ。4人で限界。ごめんなさい。

danceWEBレポートの前書き(みたいな)

これをレポートの前にのせます。英訳して、オフィスにわたすレポートにもします。

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 5週間という集中プログラムで、私は何を学んだのか。様々なワークショップで教えられた多種多様なダンステクニック/スタイル?ヨーロッパで現在大変人気のある様々なアーティストのパフォーマンスを見ることによって知った、これからの現代パフォーミングアートの可能性?もちろんそれもあります。けれども、僕が第一に挙げたいことは、2006年の夏、ウィーンで出会った全ての人々から教わった、暖かな心のあり方だろうと思います。
 5週間のプログラムで、64人の参加者は、STUDENTHAUS(シュトゥーデントハオス)という学生用集合住宅で共同生活を行いました。2棟の建物の各フロアに8部屋、2部屋ごとにシャワーとトイレを共有し、概ね一人で一部屋を使用。但し例年より増加した参加者のため、一部では二人で一部屋のところもありました。キッチンは一フロアで一つ。(贅を尽くしたホテルのようではありませんが、京都の学生アパートになれた自分にとっては部屋の広さも設備もとても素晴らしく思われました。)
 そこで毎日、僕は、隣部屋や同フロアの友人と話したり、或は屋上で酒を買わしたり、一ヶ月間そこでの「暮らし」をともに楽しみました。こうしたアコモデーションや、ワークショップの会場、パフォーマンスの行われた劇場などにおいて、僕らはいつでも、プログラムについて、或はワークショップ、パフォーマンスについて、感想や意見を述べ合ったり、お互いの芸術のバックグラウンドや、各々の国のアートシーンについてなど、屈託のない会話をしていました。
 20代前半から30代前半までの参加者は、それぞれ異なった経験を持ち、そのおかれている経済的状況(ダンスで既に食べているのか、いないのか、またどうやって)や社会状況(どういった評価を受けているのか、また各々の国の政治・芸術状況からどのような視線を浴びているのかなど)も様々であるということ。皆との会話の中で僕はそれをゆっくりと知っていきました。しかし、こうした会話の中には、相手をそうした、いわば「ラベル」のようなものによって、蔑んだり、変に褒めたたえたりするような態度は決して露になることはありませんでした。
 私たちがワークショップに参加するとき、私たちは自分で自分のレベルを推し量って、クラスに付帯するBASIC(基礎)、INTERMEDIATE(中級)、ADVANCE(上級)、OPEN(オープン、どのようなレベルの人も)といった難易度も選ばねばなりませんでした。あるいは、コーチングプロジェクトと呼ばれる振付家・アーティストとの1〜2週間に渡るより集中的なプログラムに参加するには、プログラムの参加者のみならず、他の公募されたダンサーも含め、希望者が事前に先行され、当然落選する場合も少なくありません。これらは、より明らかに互いの違いを見分けられる「ラベル」といえます。こうして、さらに分かり易い「ラベル」が各自に与えられたもかかわらず、それでも、そうしたことを基に優劣をつけているような意識は、互いの会話で一度も感じられませんでした。
 僕がこうしたことを強調することが、とても恥ずかしいことだと言うことは、もちろんよく分かります。こうしたことに気付く時点で、僕の中に、こうした「分かり易い違い」を基にした差別意識が少しでもあるということだからです。しかし僕にとっては、幼い頃から「勉強」することを良しとする価値観を与えられ、先頭に立つように追い立てられてきたことから、自分が今何処にいるのか、そういった自己中心的な発想を断ち切るのは、なかなか容易ではありません(これは少なくとも日本で「学校」というシステムを通過してきた人であれば、いくらかは理解出来るであろうと思います)。ですから、ウィーンでの皆との会話において、いつもその底に流れる「相手へのリスペクト(敬意)」には驚きさえ覚えました。
 そして私はこうしたリスペクトを、参加者のみならず、プログラムやフェスティバルのスタッフ、またプログラムのアーティスティックコーチの二人からも感じることが出来ました。コーチのマチルダ・モニエのことは本当に忘れられません。彼女のキャリアは、既に私たちよりも格段に評価されていますが、彼女はそれを鼻にかけるようなことはせず、私たちに対していつも正面から向き合ってくれました。言い換えれば、何か「教えを諭す」ように上から下に伝えるのではなく、彼女はいつも同じ視線の高さを持っていました。ある時「サロン」と読んでいた私たちのミーティングで、そのために使用する部屋が、他のダンサーのリハーサルで使われていて、時間になってもなかなか入ることが出来ませんでした。私が来た時彼女は廊下に参加者の数人と円になっていて、まさに車座のように皆と親しげに話をしていました。とても印象的な風景でした。
 あるいはプログラム及びフェスティバルのダイレクターは、あるサロンで、「これだけ踊らないダンスが舞台上で山ほど上演されているのに、ワークショップではまるでフィジカルなことをさせるのか。」という手厳しい質問に対して、「私たちもそうした状況は理解している。しかし、私は今の状況はこれからまだ変わっていくだろうと思っている。」とやはり私たちと同じ目線に立って返事をしてくれました。(しばしば日本ではこうした状況で同様の立場の人は、まず組織としての体面に即した発言をすることがあるように思われます。ここでダイレクターは、参加者個人の意見に対して、彼個人の意見で返事をしていたことに、私は驚きと心地よさを感じました。)
 挙げだしてはきりがないほど、様々なことがありましたが、繰り返して言えば、常に私はウィーンでの人々との会話で、その底に、「相手へのリスペクト(敬意)」を感じました。この「相手へのリスペクト」は、他者の「可能性」に対しての積極的な姿勢と読み替えることができると思います。様々な分かり易い「ラベル」に表彰されている何か、例えば地位や技術、経済的状況、国籍、人種、母国語と言ったもので指し示されている何か、を超えて、自信の認識に含まれない何かが他者の存在にあるかもしれない。そうした可能性(現在においても未来においても)への積極的立場。つまり、他者へ開かれた心(オープンマインド)の有り様です。
 プログラムがまさに終ろうとしている時、イスラエルから来ていた一人のダンサーがとても印象的なスピーチをしてくれました。彼は、イスラエルで大変有名なカンパニーで働いていた経歴を持ち、大変素晴らしいテクニックを持った優秀なダンサーでした。
 「正直、僕はプログラムの始め、大変失望しました。なぜなら、(クラスが)上級と言っているのに、期待していたようなレベルではなかったからです。けれども、時間が経つにつれて見方を変えていきました。皆とともにいる中で、そこでともに楽しむこと、喜びを知ることに気付いていきました。それは(このプログラムの)人々のおかげです。」
 他者のことを容易に「分からない」故に、他者を消極的に捉えること(差別)はとても悲しく思います。元々他者は私ではなく(私は他者との縺れ合いであり、運動であり、他者に住むが、他者にとどまることは出来ない。持続によって。)、共通の手がかりが多かろうが少なかろうが「分かる」ことは出来ません。いずれにせよ他者の志向に近づくことは、時間がかかり、それが長いか短いかだけの違いなのです。しかし他者が私でないということは同時に、他者が常に私の認識を超えた可能性を豊かに持っていることを指し示しています。ですから、他者への志向に近づく道のりに途方に暮れ、門を閉めてしまうことは、他者への可能性を見失い、自己の認識に隠れ込んでしまうことです。いわば自慰行為です。しかし、長い道のりを行くことよりも門を閉める、つまり自己の現在位置周辺から大きく離れるという行為よりも留まることの方が、より容易である故に、そうした行為(差別)が世の中に少なくないことは事実です。
 ウィーンでのプログラムが終わり、その後フランス、ポルトガル、ベルギーと渡った後、僕はオランダ、アムステルダムへ歩みを進めました。そこで、先のイスラエル人の友人と再会することになりました。彼はたまたま立ち寄ったオランダで、偶然キャストが降りたプロジェクトのオーディションに参加することになり、見事代役として仕事を得て、パフォーマンスに出演していました。パフォーマンスの後、滞在させてもらっていた友人(彼も同じプログラムに参加していました)とご飯を一緒に食べようと誘い、後日夕餉をともにしました。仕事を手にした彼と、あても無く放浪している僕が、2か月ぶりに再会した時、それでも僕らは、そんなことを気にせず、ただ友人に再会出来たことを喜び合いました。
 danceWEBで出会った人々の姿勢は、決して私たちの間に「分かり易い違い」があろうとも、つまり互いの理解への道のりが長くなることが予想されようとも、その始まりに於いて、ともかくも門を開けること、「相手へのリスペクト」を持ち、暖かさ、積極性を他者への向かい合いの底に満たそうとすること。それは実際のところ(とても悲しいことではありますが)貴重な、まるで豊かな心の有り様です。そしてその姿勢は、私が彼・彼女たちとの会話で行えたように、向かい合う相手にもそうした心の有り様を促すものです。つまりこうした姿勢は、お互いを助け、豊かな心持ちで共に暮らし得る可能性をより多くもたらしてくれると思うのです。
 danceWEBは、これからプロフェッショナルな道のりを歩み始めるアーティストに対して最初の一歩を与えることを重要な理念としています。しかしプログラムを通じて教えられたその一歩は、よく考えられるような、盤石なテクニックでも、アーティストとしてセルフプロデュースしていくためのビジネス精神と言ったものでもありませんでした。世の中には色んな人がいるということ。色んな生き方、色んな境遇、いろいろな哲学…。そうした違いを当然と思い、そこに暖かさを持って思うことによって、共に生きていこうとすること。それが、社会に在り、社会との関係によって初めて成立し得る「芸術」を作り続けていく、プロフェッショナルアーティストには必ず必要である。danceWEBは、私たちが仕事する上で最も大切で、忘れてはならないことを教えてくれました。

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もうちょっと修正するかもしれませんが、ようやくほぼ書き上がりました。

Monday, December 25, 2006

あまり人ごとではないなぁ。


京都にこしてからは僕もアルバイト斡旋所や派遣をつかったりしてたけれども、基本的に回ってくるのは単純労働だけ。労働条件は何処もひどく、自由を謳歌するようなフリーターなんてどこにもいない。トントンと大学いって、大学からすぐ就職していった人が世の中を殆ど動かしてるような社会で、こういう人たちのことって、想像されることも出来ないんだろうなぁ。人ごとでない。

Sunday, December 24, 2006

メルロ・ポンティ「哲学をたたえて」

去年か一昨年に「眼と精神」を古本屋で1500円で買って、「人間の科学と現象学」は読み終えて、今年に入ってから「哲学をたたえて」を。例によって爆裂遅い。半ばくらいまで読んだ。面白いところ自分のために抜き書き。

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p.199
 哲学者が哲学者として認められるのは、<明証性>にたいする眼と、<両義性>にたいする感覚とを不可分に合わせ持つことによってです。最も、彼が両義性を受動的に受け取るだけであれば、その両義性は<あいまい>と呼ばれます。しかし、最も偉大な人たちにあっては、両義性は主題となるのであり、確実性を脅かすどころか、その確率に寄与します。…つまり、彼らはこの絶対知ではなく、我々のうちにおける絶対知の生成について教えてきたのであり、またキルケゴールが言っておりますように、絶対者ではなく、せいぜいのところ、絶対者に対するわれわれの関係の絶対性について教えてきたのです。哲学者をして哲学者たらしめるゆえんのもの、それは、絶えず知から無知へ、無知から知へと送り返す運動であり、またこの運動の中での一種の静止です。

p.212
全ての哲学者や画家が、他人によって自分の作品と呼ばれるものを、常にこれから完成されようとしている作品の下絵にすぎないと考えるものだということは、全く本当のことです。けれどもそのことは、完成した作品が彼らの手前のどこかに実在しているということを証明するわけでもなければ、またその作品に達するには覆いをとりさえすればよいということを証明するわけでもありません。
 …すなわち、ある哲学の秘密と核心は、その誕生以前のインスピレーションの中にあるのではない。作品が進行するにつれて核心自身も移動するのであって、作品とは、おのれ自身と合致したり対立しながらおのれを構成していく<生成する意味>なのだ。従って哲学も、必然的に(哲学的)歴史となる、つまり部分的解答が出てくるたびに当初の問題も変形していくような<問題と解答の取引>となるのである。

p.222
 ところで、われわれが<表現>と呼んでいるものは、ベルグソンが絶えずそこに帰ろうとした現象、つまり<真なるものの遡行的効果>であるような現象を別なふうに言い表したものにすぎません。…<考える>ということ、言い換えればある観念を真であると考えるということは、過去についていわば一種の奪還権を主張するということ、或は過去を現在の先取として扱うということ、少なくとも過去と現在とを同一世界に位置させるということを意味します。私が感覚的世界について述べている内容は、感覚的世界の<中に>あるわけではないが、しかし感覚的世界が言わんとしていることを言い表すという以外の意味を持つものでもありません。つまり<表現>というものは、おのれの日付を過去に遡らせ、あたかも<存在>がその表現に向かって進んでいたかのように仮定するところに成り立つのです。

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「この運動の中での一種の静止です。」とか、凄い日本語としてきれいで、訳者の滝浦さんがどれだけ苦労されたろうかと思う。

Saturday, December 23, 2006

クリスマス休暇前

で、近くのZielpunktが野菜50%off(じゃがいもと玉葱は違うと言ってた)。人参1kg、白菜大1つ、ハーフリッタービール2本、板チョコ1枚買って2.33euro(¥400弱)だった。すごい。

夏のスタッフとあってコーヒーを飲みにいくつもりだったが、待ち合わせ場所に現れず。がーん。こういう時携帯が無いと不便。しょうがないので本屋で買い物して帰る。
Camera Austriaという雑誌と、Thames & Hudson, world of artシリーズの「Performance Art」。日本だとPerforming Art=舞台芸術になってしまうけど、副題のFrom Futurism to the Presentの通り、シュールレアリスムとか、その辺から、Live Performanceにまつわるアートを一通り見ながら最近の舞台芸術にも触れていくみたいな流れみたい(まだ読んでない)。今日の状況をかんがみれば妥当。暇見てお勉強しよう。

ドイツ語の勉強がすすむよう、ペンパル募集サイトに超軟派な英語で自己紹介書いたら速攻2通ドイツ人からメール。いいのか?

Thursday, December 21, 2006

おばあちゃんと電話した

久しぶりにおばあちゃんと電話した。大変だろうけど、今出来ることを頑張りなさいと励まされる。上を向く気分になる。
せっかく勉強してきたのだから、使わなくては意味が無いので、勇気を出してパン屋にいったりカフェにいったりしてドイツ語を喋ったり聴いたり。時間はかかるけど、気後れしていたらいつまでたっても喋れない。
ナッシュマルクトのそばの、日本でいったらドトールみたいな大衆的ででも不潔というほどでもないカフェ。たまにはこういうところも気楽。仕事仕事。

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そして3週間のドイツ語授業は今日で終了。おそらく1歳くらいの子供とは同等なレベルまで来たんじゃない?悩んだけど、来月もクラスをとることにした。通常1ヶ月受講なので、2週間しかとらないのはイレギュラーだから交渉して、いいといってくれたけど、授業料は半額にならず、3/4。うーん。でも先生優しいし頑張ろう。

Karlsplatzのクリスマスマルクトが人一杯だった。

Monday, December 18, 2006

高木正勝さんのAir's Noteをぼんやりきく

一年が終わろうとする時って、いつも色んな不安に駆られる。いったい一年で何が出来たのか、絶対に満足なんて出来なくて、来年はもっともっと頑張らねばって思うんだけど、結局ダラけがちな自分もいて、(無理しすぎると逆に鬱っぽくなるし)葛藤する。
学校から帰ってきて"Air's Note"を聴く。ぼんやりする。たしか3年か4年前に高木さんの音楽を東京で初めて聴いた時(ライヴではなくて、ただレコードがかかっていた)、すーっと肩の力が抜けるような感じがした。それまではとにかく作品を作らなくちゃーとか焦っていて、自分が本当に現したいことがどういうものなのか、ちゃんと探ることもないままただ突っ走っていた。それが、高木さんの音楽を聴いて、ああこういうことがやりたかったんだ、と取り戻して、どうしたらそこに近づけるか、格闘しながら「これが私の優しさです」をつくった。
もし彼の音楽に出会っていなかったら、もっとどうしようもない作品を作り続けていたかもしれない。
ぼんやり。

Sunday, December 17, 2006

ぼんやりする時間

ゴロゴロしてばかりいてもいけないので、cafeにいってコーヒー飲みながら仕事。まだまだ店員の言ってることがよくわからない。悔しい。
友人Pが春前に何かやらないかと言ってくれてた件、さすがに帰りたいし帰らないとお金なくなるので、でも彼の作品は凄く興味があるので、「夏のプロジェクトが終った後どう?」などと自分勝手なアイディアを取りあえず送ってみる。どうなるかしらない。後書かなくてはならない書類のテキストをたったか書いて友人Gに送り、これも返事を待つことにする。レポートもぼちぼち進む。外に出ればこんだけ進むのに何故家では何も出来ないのか。困ったものだ。金もかかるし勘弁してほしい。
帰ってご飯と肉じゃがをつくろうと突然思い立って作る。おいしかったけど、締めにマーガごはんつくったらバカうまくてがっつく。カレーもそうだけど、貧乏暮らしが長い分、むしろこういうしょうもないものの味の方が身体に染み付いていて、突然懐かしくなったりする。

2006, about to leaving this year...

talking with my friend in Kyoto, sometime i was encouraged...yeah... reminded my friend in amsterdam talked to me, "what is the problem? you did so many things this year, aren't you?" i think that's true. i can not think i got so many concrete things, like awards or something like that, but anyway i "knew" or "learned" so many things according to visiting not few cities. for now, that does not work obviously, but this year is like investment for my future. i knew so many nice people, had a lot of friends! that connection will work slowly in not so far future. i hope, or must be....

Saturday, December 16, 2006

人が一杯

土曜日なので授業がなく、街に出てみた。といっても知っているところをうろうろ。土曜日で何処もわんさか人が出ている。クリスマスが近いせいもあるのだろう。マリーヒルファーは警官が随分出ていた。コーヒーを飲もうと思って知っているカフェをいってみるが、まるで人が一杯。大分歩いて夏に何度かいっていたカフェでようやく。wienはコーヒーはあまり安くない。2euroはとられる。フランス圏の方が確実に安い。食べ物は安いのだから不思議。

Thursday, December 14, 2006

頑張ってドイツ語を話してみる

買い物をするときとか、ちょっとした会話が聞き取れるようになってきた。頑張って(つい英語が出そうになるのを押さえて)、"Ja, bitte."とか"Keine"とか、かたことでも喋ってみる。語学留学なんて想像してみたことも(今も語学留学なんてわけではないけど)なかったけど、なるほど、現地で学ぶというのは確かに覚えるのに有利だな。

夏のレポートのテーマをやっと思いつく。"Possibilities / OPEN MIND"か、"Possibilities : OPEN MIND"か。ルームメイトと理解し合うのに苦労して(お互いどうもあまり知らない人とそんなに話すのが上手でないようで…)、そういうなかで、dancewebのコミュニティが教えてくれた、他者の可能性をそっくりポジティブに受け止めようとしていく、そういう雰囲気の素晴らしさに、改めて気付かされたのだ。日本語のレポートは、それに旅での具体的な出来事を付記するような感じにしたらいいと思う。年末は暇なので、なんとか仕上げたい。

Wednesday, December 13, 2006

死にそうになる

信号待ちで停車。青信号になったら、前の白いバン(結構でかい)が左ランプを点滅させたので、てっきり左折するかとおもったら急にバックしてきて、咄嗟に向きをかえられず、下敷きになりそうになる。いそいで自転車すてて逃げる。後続のドライバーがでかいクラクションをならして、バンのドライバーに知らせてやっと停車。奇跡的に無事。自転車(友達の…)も無傷。駐車しようとしてたみたい。もっとちゃんと確認しろよ…。ヨーロッパは自転車は車道を走らなくてはいけないので、怖いからともかく注意深くしている(トラブったらドイツ語できないので、対応しきれないということも想定している)けれども、やっぱり怖い。

でも運転手が"Alles klur?"と聞いてきて(若いお兄ちゃんだった)、"Ja, alles klur. Kein problem."と喋ったのが、たぶん初めて今回のドイツ語が学習が役立った瞬間だった。

Tuesday, December 12, 2006

先生は無事復帰された、やれやれ

ドイツ語の先生は無事復帰された。やれやれ。隣の女の子は先生が入ってきたら、「Gut!」とかつぶやいてきたので予習をしながら笑顔でうなずき返す。 なんでこの先生がいい先生かなーと考えたら、生徒が「出来ること」(もちろん「出来ないこと」でも)ではなくて、「出来そうなこと」(能力をちょっと超えるぐらい)を狙って授業展開しているからだと思う。これはダンスの先生も一緒で、日本のバレエ教室の基礎クラスとか分かり易いけど、ひたすら簡単なことばかりやられても、「その先」に進めない。
というわけで僕の全く知らない単語ばかり使って話してくる先生の質問はいつも分からず、困った顔をしているともっと困った顔を返されてしまったりする。うーん、頑張ろう。というかヒアリングはずっと書くことより難しいです…。

安いwebcamを買って、でもmaccamのwebサイトに「supported」とあるので信用してつないでみたら、うつることはうつるけど世界が全て黄色。黄色のままskypeで友達につないだら、「でも黄色が合ってる」と言われて何も返せない。

Monday, December 11, 2006

Inakiは今回わりに楽しめる

Wienというのはなんだか凄い。Inakiのクラス、今日は7人しかきてなかった。ありえない。ブリュッセルだったらものすごい数のダンサーでひしめいてしまう。僕にとっては本当に有り難い。フロアへの入り方が大分身体で理解出来てきて、いろいろな運動が楽しくなってくる。
夏はあまりにも人が多くて怖い怖いとばかり思ってたけど、Inakiは確かにいい先生で、今日は後半少し体調を崩してしまったので外から見ていたら、よくダンサーの動きを見ていて、ダメなところは必死に(これが怖いのだけど:-))説明するし、頑張っていて出来れば、ちゃんと褒める。

TQでそのまま勉強してたら友人Mに会う。次回作の構想を聞かされて、あまりにも面白く、自分も頑張らねばと思う。

ドイツ語学校にいったら病欠だかなんだか分かんないけど、いつもの先生でなくて、ただひたすら教科書だけを追っていく死ぬほどつまらない授業展開。となりのイスラム系の女の子に「悪い授業」と途中つぶやかれ苦笑いを返し、授業が終ったら「よくない先生」とあまり小さくない声を発して帰っていった。うーん。確か肉屋のトルコ人のおじさんも、僕が眠そうにしてたら、「お金払ってるけどねー」みたいなことをいわれる。明日は前の先生が復活していることを心より祈る。

Sunday, December 10, 2006

what am i doing here? ...i do not know...

what am i doing here, in vienna? actually also for me, it is not sure. i am still traveling... yeah i am exploring, what is my best idea for my life? i don't know... i was talking with my most important friend in japan via skype for a long time on this weekend. i was just chating, but i was really satisfied with this. i think, yeah that is enough for me, honestly. living with sweet people and having fun anytime... but it is not easy to get that, right? struggling on my way here, now without clear goal... just only clear thing is that i need a time. time for fighting with the real world. in economic, in social, in politic... this time is surely necessary. don't you think?
however, also surely, NOW i am fighting and this is not so easily, TOUGH. hope to live all of people together with love in the closing future... i am ok...;)

NY Times:Nobel Winner Warns of Dangers of Globalization

Saturday, December 09, 2006

but then? we have to go...

TQ, Open Lab "Only Words" by Martine Pisani(France)
with André Guedes(Portugal), Michikazu Matsune(Japan/Austria), Martin Nachbar(D?), Martine Pisani(France), Oleg Soulimenko(Russia/Austria), Gerhild Steinbuch(Austria)

テーブル上に裏返しにされた紙片が数枚ある。一枚とり、そこにかかれたタイトルの「作品」を説明する。あたかもそれぞれのアーティストが過去にやったように言うけれども、どれも架空の作品。
自分のアートワークに対する疑問を一行書き、2分間沈黙する。そしてさらに思いついた自分への質問を書いていく。それを繰り返していく。
こうした、「言葉」を用いた様々なリサーチ。9日間やっていたそうで。
言葉が、言語体系や、言葉を発するという行為(生成の瞬間)など、色々なことが絡み付きこういうのはとても興味深い。

最後に見にきた人から質問。"What do you bring back to your production?"と質問されたMartineは、"hmmmm... different ways? or just meeting people... it is difficult to people because everybody so busy.."云々"We can say 'yes' or 'no' easily. But then? We have to go..." ここで「何が」見つかったかを問いかける観客に対して、そうした明瞭性を求める行為に対して逆に問いかける。いや僕もMartineの考え方にすんなり賛同する。

こういうリサーチをさせるTQは本当に希有な施設であると思う。これだけの規模でこんなことをさせている場所が日本にあるだろうか?いやヨーロッパにだって珍しいだろうと思う。

Friday, December 08, 2006

"parole"についての雑誌記載

"parole"について演劇人22号において稲倉達さんが記載してくださった記述を転載させていただきました。こちらでご覧頂けます。トップページからのリンク方法思案中…。

ドロドロの休暇

考えてみたらずっと休暇がなかった。

日本ではずっとアプリケーションの作業に追われてしまっていたし、徹夜でそれを書き上げてからそのまま飛行機に乗りワルソーへ行き、翌日から8日間朝から晩まで休みなしのスケジュールをこなし、最終日にミーティングと最後のパーティー(この時点で死亡していて、"Are you stressed up? I feel that on your body."と友達にいわれる。-sure.)のあとPKS Warsawaから14時間のバスを乗ってWienへ。到着日の翌日から朝のクラスと午後のドイツ語の授業をうけていた。(月曜と昨日はさすがに朝のクラスはスキップしていたけど)

実に3週間ほど、予定のない日がなかった。それは疲れる。精神状態はドロドロで、身体もボロボロ。尾を引いてた風邪が悪化し、昨日は発熱してダウン。

でもついに休暇がやってきた(なんだか分からないけど、今日はオーストリアのナショナル・ホリデー)。

今日は朝から何もしないように心がけ、だらだらwebをみたり、2時間近くかそれ以上か、日本の友達とskypeでダベり続けたりする。近くのZehlpunktにいってチョコレートを買って、食べだしたらなかなか止まらない。疲れたときになる軽度の過食傾向。ドロドロ。でもどうにかどうにか。

夜になったら少し落ち着いて今Gouldをかけてきいてみたりする。風邪は大分良くなってきた。

wienにこれてよかった。ともかく、今は自分の家があり、この街は波長が合う。何というか、オーストリア人というのは、ほどよく真面目で、たとえばそれはラテン系の友人などにいわせてみれば厳しすぎると感じるそうなのだが、日本人ほどの厳格さは無く、僕にとっては心地のいい印象がある。寒いけれども、天気は晴れ間がそれなりに見え、青空を見るとホッとする。

それに何より、どうしても困ったときに頼れる友達が、ここには何人かいる。

今すぐにここで仕事を見つけることはとても難しいことなのかもしれないけれど、例えば3〜
4年のうちにこの街にこして来れることが出来たなら、それはとても幸いだと思う。

そのために仕事をしなくてはならないのだから、今日は、休んで、ぼんやりと空をあおぐ。

Thursday, December 07, 2006

無責任

フランスがインターネットで無料のTV放送をはじめたのでみていたらブッシュ・ブレアの会談後の会見の映像が。むちゃくちゃ無責任な発言に"What a fuck!"と思わず叫ぶ。

Wednesday, December 06, 2006

時間と空間

疑問詞wo wohin woherと、前置詞aus in nachをクラスでやっていて、前とか後とか考え始めたら訳が分からなくなり、原因は動的な図を先生が書いたからなのだけど、ついつい時間を空間的に例える癖を自分も持っていることに気付いてはっとした。
TQでとっているInakiは、クラスは面白いのだけど、とにかく怖いので、常にビクビク。出来ないとものすごく不機嫌になる。努めて明るくしようと試みるけれども、あれやこれややっぱり分からなかったりする。夏に初めて彼のクラスをとったときは、(何もかも初めてだったのからそれはそうなのだけど)本当に出来が悪くて、何度が凄い視線を浴びた覚えがある。でも今回は慣れがある分ましで、たまにほめてくれたりもする。slowly, slowly...
TQで友人Mにあい、少しほっとする。

Tuesday, December 05, 2006

バタバタ

先週の忙しさからどう変わると思ったけど、結局殆ど変わらず。朝クラスに言って、夕方ドイツ語の授業を受け、帰ってきてから夕食を作り、それから復習予習。風邪顔を引いているので、気をつけながら過ごす。
ドイツ語の授業は、当然英語と思っていったら全部ドイツ語で泡を吹きそうになる。一番簡単なクラスと言っていたのだが。けれどもナッシュマルクトに近いこともあって、生徒さんは殆ど働いている社会人(肉屋、洋服屋、コック…)。とすれば英語でやれば公平感がなくなる。

Monday, December 04, 2006

arriving vienna, and photos from pointe 2 point

i was arrving safely in vienna yesterday. here i am in my new home in 3rd district of vienna, so sweet and calm place. i will be staying here until 20th jan. to study germany (language) and take some classes in tanzquartiler.
actually so many things happened in warsaw, but for now i just put some photos from that.






(this scene was cut for the show ;-) )

Sunday, December 03, 2006

wien着

14時間のバスをへてwarsawaからwien着。夜中のpks warsawaは、駅も完全にロックアウトされていて、人気がなく、凍えてベンチにすわっていたら、あからさまな薬中に話しかけられたりする。人が来ても誰も英語が通じず、本当にバス来るのかと思ったら来た。預けられる荷物は一個までだ、多い分6euro払えといわれ、さっそくげんなり。
空路と違い、チェコ、オーストリアと、国境にてしっかり検問。バスに入国管理官が乗ってきて、euのパスはちらっと見て終り、それ以外はオフィスに持ち帰っていってチェックされる。さすがにこのときはドキドキする。
二ヶ月間の我が家は3区で、場所がよく、雰囲気も落ち着いていて安心。さっそくケバブをたべたりする。

Thursday, November 30, 2006

結局バタバタ

しているわけです。今日小屋入り明日本番。

ポーランドは、思ったより、ずっと西側ヨーロッパの風景と変わりなく、来た当初はとても驚いた。最初の数日はキレイに晴れていたけど、突然凄い霧が出てビックリ。本当に15mくらい先が全く見えなくなる。交通量の多い道路には警官が出て、警官が出れば渋滞が起こるという仕組み。

Sunday, November 26, 2006

さすがに皆疲れてきたようで

今週ずっと日本にいたおかげで休まれていた性もあるかも分からないが、割とこの手のプログラムには慣れていて、忙しくて大変でも、何となく自分のペースを持てるので、それなりにこなしている。アーティストの要求に対してなるべく素直に、それでもチャンスがあれば自分の意見を提案して様子を見る。こういうことはフィリップのワークショップで死ぬほど勉強させてもらった。

でも皆そういう風に出来るわけでなく、今日はタイから来ている Lが急に気分を悪くしてトイレに駆け込むというアクシデントがあった。ホームシックにもなっているともらしていて、まだ4日しか発ってないのに、と言ったら、それでも辛そうな顔をしていて、驚いた。一人暮らしをずっとしている性もあるのだろうけど、少なくとも僕は一週間は持つ。

さて、このアーティストと作業をしていて思うことは、やっぱりビジュアルでしかものを考えられてなくて、たとえば構造それ自体の面白さとか、「ここ」からぜんぜん飛躍していかない。というか、そういうことをやろうとしているところが、僕の珍しい点であることの裏返しでもある。では何故そんなことをわざわざ人のプロジェクトでも挑戦しようかというと、それはそのアーティストがもしかしたら一緒にこれから出来るかもしれないという期待と、可能性のリサーチをしているわけだ。

いつかMさんが web上でダンスはこことか今につい絡みとられるみたいなことを書かれていたが、こういうことなのだと思う。僕の強調する「ここ」や「今」は、実際のところそこから飛躍している限り、動的な可能性として、静的な「ここ」「今」とは全く異なるのだ。

Saturday, November 25, 2006

pointe 2 point, warsaw

さすがにこの手のプログラムは忙しく、書かなくちゃ、書かなくちゃと思っていてもついついホテルに帰ったら寝てしまう。ともあれ。

行きの飛行機(人生発の支給された切符)はklmで、boeing 777のジャンボで座席が広く快適。ほぼロシア上空の北側を通るコースで、アムスまで約12時間と高速。隣にオランダ人の小さな子供が二人座っていて、お姉ちゃんが英語を勉強しているようで、時々話しかけられる。僕より喋れる。始終起きていたらと思ったら、着陸の最後の一時間でとうとう眠り、ついたら起きなくてお母さんが困っている。4時間スキポールで待って、ワルシャワへ。スキポールには横になれるリラキシングチェアがあっていい。

日本人の友達が二人、それからギリシア、スペインからも友達が来ていて、割とリラックスできて助かる。人見知りな人はこの手のプログラム知らない人ばかりだと苦労するのです…
部屋はそのギリシア人の友達とシェア。よく喋って楽しい。

初日の自己紹介の後、振付家のセレクションがあり、無事希望していたフランス人のBrunoという人のグループに。Avinionの人。でもけっこうフィジカルなことをやる。

初日の自己紹介では、タイ人のダンサーが、伝統舞踊のパンツをはくのを見せていたのが面白かった。長い長方形上の布を器用によったり結んだりして、パンツにしていく。着物と同じで、人の体の形を基にした洋服と違い、収納するときのことを考えた仕組みは、鷲田さんの本で読んだ通り。

Thursday, November 23, 2006

10 days in kyoto, japan

here i am waiting boarding a plane for the Amsterdam. there, i transfer the plane and leave for Warsaw. i was in kyoto this week about 10 days with my friend. before coming back, i was planning to take a break whole days, but actually it was really busy days according to writing a application for the founding for my next project. i have not slept from yesterday....uhuh. but anyway, finally, finished up, and hopefully it works and get a huge money (to eat sushi)!
in Warsaw, i take a part in Pointe to Point program, european and asian dance aritists co-creation program. hope to enjoy with meeting up nice guys(2 of my friends also coming!) :-!

Monday, November 20, 2006

書きかけの卒業論文が

出てきました。こういうものははずかしいのだけど、アーカイブ的に、また、作家が作品をどういったスタンスでつくっているか、もう少し積極的に提示するためにwebにのせてみます。

以下最初の文章。
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 他者と向かい合うこと。私たちが、生きる時、私以外の誰かがもし私に先立って存在しているならば、いやそう考えざる負えないのだから…私は即自的、構造的成立は尚もこれを乗り越える説得力を持ち得ていないと感じているのだから…私はこの他者と「どうやって」「何を」成すか、ということをいつでも問題として抱え込む。しばしば政治というものが平衡を頼りにその関係を捉えようとするが…私に先立って存在していることを気付きながらも…他者を私は私を通してしか考えられないという限り、その裏に利己的な牙をわざわざ隠させることになる。いやむしろ、じっとりと相手に浸透していく微量の毒のようにして蝕んでいく。そして私たちの生活における会話の中にも、政治にみられるような平衡意識が孕まれていて、私はその毒に苦しんできました。それは他者からそうして蝕まれる時も、私が誰かを蝕もうとしている時も。しばしばそこに言語に象徴されるような沈殿した制度的行為が介在すると、こうした…(私が想像しうる)他者との共通領域と自己の意識といった…平衡を思うのはごく自然なことでしょう。やはりそれは他者が自己ならざる、私に先立った存在であるという同じ根拠から。しかしこの毒が今世界に多くの不幸を生み出していると私は思うのですから、ただこれをしょうがないと思うのでなく、「それでも」どうにか共に幸いを求めることは出来ないのか、そういう希求がこの作品の始まりにあります。いや正しくは、「芸術」というものを通してこの希求を満たす何があると私は、他者から学んだのですから、私も私なりのやり方でこの何かを呈示することを目指そうと考えたのです。
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pdf file 740kb

Sunday, November 19, 2006

休暇のはずが

結局オーガナイジングにおわれてやりたいことは何も出来ずになってしまう。
いいたいことは山ほどあるが、お金がないことは確かで、やらざる負えない。

家の側の劇場では有名な舞踏家が公演をしにきているが、3,000円の入場料はとても払えない。踊りを拝見すれば、それは素晴らしいものなのかもしれないけど、そういう名前で売って、内輪な観客を集めるという露骨な制作手法にはあまりいい気がしない。

友人に勅使河原のAbsolute Zeroをdvdでみせたら、「皆どうしてこんな踊り方をするのか。もうあきた。」と言われる。自分が思っている以上に、舞踊を見に来る人にとって、これまでの手法が機能しなくなってきているのだな、と思う。

Friday, November 17, 2006

そしてちゃんと風邪を引く

レモンをしぼり生姜湯を飲み、蜂蜜をなめる。ここで食い止めねば。
休暇のつもりであっても結局やることがある。友達と、「こんなに仕事してるのにお金にならない状況はとにかく早く脱しないと、しょうがないよね」と夜話す。 がんばるがんばる。

無料のコンタクトのws、高橋さんという方。独り言をよく喋られる先生。でも基本的なことをちゃんとやっていく感じで、好印象。身体の物理性と、感覚のずれ、が味わえるのもコンタクトの面白いところだな、でも僕はやっぱり苦手(be not good at)だな、と思う。

民主党が勝ったことで、本当に米軍はイラクから撤退するのだろうか?もしそんなことになれば、誰もが考えていた最悪のシナリオになる。自分の国(或は世界?)を守るためにという名目で人を殺しまくりに行って、自分たちが死にまくってきたら、「もーやーめた」なのか。どちらかといえば、支持した国民こそ罪があるのではないのか?ぐるぐる。

それから、以下飛行機の中で書いていたもの(殆ど引用)。
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""""""""引用ここから
 ただし、わたしたちの日常を編成している<物語>は、たしかにあるまとまりを欠いたままでは十分に機能しないが、それじたいは穴だらけで、ところどころほつれており、さらに他のそれと整合しないところもある大まかなものでしかない。社会学者のアルフレッド・シュッツがかつて用いたことばを借用すると、その構成は同質的でも一枚岩的でもなく、多元的な領野を雑多なままに混在させている。現実はいくつかの<物語>によって折り合わされながら、なおかつそれを乱反射させる様な塵やざわめきに満ちているし、しばしば一つの相貌へと硬直してゆくようにみえながら、あるいは定型的な<物語>の退屈な再生産でしかないようにみえながら、しかしその過程で「突然意表をつく様な下絵が残り糸や新しく縒りあわされたいとで編まれると言った形で」(H・P・トウルン)知らぬ間に地すべりを起こしていもする。これはまるで薮のようなものなのだ。だから、単一の視点から俯瞰出来るような現実こそ抽象的というか空想的と思った方が良い。
 しかし薮のようなこうした現実は雑多でありながらも凝集し、ゆるゆるでありながらも織物のようなまとまりを持つ。それは通常はそれとしてはことさらに意識されないものだが、澱のようなある安定的な部分を含んでいる。そしてそれにわたしたちはふだん「ふつう」とか「あたりまえ」とか「自然な」といった感覚でとくにそれとして意識することもなくふれている。
"""""""引用ここまで 鷲田清一「悲鳴を上げる身体」P.165

この本はまるでスルメのように何度読み返しても、役に立つ。鷲田さんの凄いことはここまで丁寧に平易に、こんな難しいことを表現されていることだ。「学ぶ」ことが単なるキャリアの積み重ねとして消費されるものでないことを、今一度思い返させてくれる。考えることは世界へのふれ方を多様にし、生きるすべを無理無く検討する場を与えてくれる。

Thursday, November 16, 2006

travel to the Kyoto

Amsterdam 22:00 -(night bus)-> Paris 6:00 -(Roissy Airport Bus)-> CDG 7:00 / leaving at 11:30->Taipei 7:00 / 8:30->Osaka 12:00 -(railways)->Kyoto 15:00
Over 30 hours travel, killing. Anyway I am here safely...

京都へ

アムス22:00→ 夜行バス→パリ6:00→ロワッシーバス→CDG7:00/フライト11:30→台北7:00/8:30→関空12:00→南海/JR/京阪/叡電→京都15:00 地獄の30時間超えで到着。翌日はなんか始終ヘラヘラ喋っていて反省。今日は休み。

Thursday, November 09, 2006

天気がよかった

毎日毎日ここの天気は曇りで、まあ慣れてしまうとなんでもないのだけど、今日は久々に快晴で、いさんでサイクリングへ行く。central stationの裏からフェリーがでていて、島だかなんだかに行けるようになっている。 フェリーといっても30秒程度で、ようは道の代わりで、無料で、人はのるわ自転車もバイクも車も普通に乗ってくる。まるで風景が変わり、country sideな感じになる。友人cはAmsterdamはartificialだからあまり好きでないと言っていて、確かにここもそうなのだけど、川沿いの並木道などを走っているとやっぱり気持ちいい。鷺がいて、でも日本の鷺より一回り小さく、木の枝にとまっていたりする。
小さい頃、自転車に乗って、知らないところに行くのが好きだった。ただやみくもに進んで、迷うために迷い、見たことの無い風景を見に行く。今でもそうした感覚があり、だらだら走っていても感覚でなんとか帰り着く。

Wednesday, November 08, 2006

people, thank you, for your warm hearts

finally i am going back japan. but it was really fortunately 'cause i did not think to be able to back there on the middle of my travel. but actually this is really good timing. honestly i have been depressed, yeah as you know, the travel is not easy, i do not have my exact home, comfortable place to relax, even super kind people give me a place to stay in free. so when i saw my friend in brussels, she said "if you feel not good, going back once is also good idea, don't you think?" but i do not have enough money for that. oh la la... however, again, life is miracle. i got a e-mail from singapore, to be known selected as a participant of a program in warsaw on nov. and they give me plane tickets from japan to there.
now i am really exited to be back there to meet my friends and go to my favorite places, cafes, restaurants, the river, temples...wherever my lovely kyoto! ....beautiful, calm, sometime cozy...
but i have to say loudly, THANK YOU VERY MUCH PEOPLE!! in this travel, since now, i have never paid for accommodations, Wien, Angers, Paris, Porto, Lisboa, Brussels, Amsterdam. This is really amazing!!!!!!! i love every town, every country because you are living there, my dear friend. you are so nice, crazy, super! i am really sorry, it is sure sometime i obviously looked not good because of my tiredness in travel, but i am really really appreciate you, YOU! even you were just talking with me at a moment somewhere, i was really encouraged anytime. i am really proud of you, such a greatly kind friend, love.
if you feel to come to kyoto, do not forget to contact me, welcome every time. i am pleasure to help you. even when i am not there, i have friends who would help you.
i hope to meet you again somewhere, sometime, none, anytime. love, peace, and crazy. scream and dance together again!

kiss.

the world is not ending

あれやこれややっても更新出来ず発狂しかかりながらbloggerのhelpを読んでいたら、take a breath. the world is not ending.とある。さすがgoogle系のものはしっかりしているものだ。

先日ようやくアンネ・フランクハウスにいく。一度前までいって、人の多さにうんざりして帰ってきてしまったのだ。午前中にわざわざ行ったのに、今回も混んでいる。でもあきらめて入場。そしたら学生割引なしで、7.5euroもとられる。もうこの時点で???? 中は展示として凄い微妙。改修されまくって当時の面影がよくわからないアミューズメントパークのように切り刻まれているし、 いろいろな遺品も取りあえずおいとけ的な雰囲気で、全体の流れがよくわからない。

観光資源化しすぎていて、もうなにがなにやら。最後の部屋に巨大なクイズマシンがあって、平和教育に関する問題を漫画のキャラクターがナヴィゲートする。知ることは大切だけど、あまりにもこれでは出来事の受け止め方を先に決められすぎている様な気がする。世界を穿つことが思考の始まりなのだから、重要なモチーフこそ鑑賞者にその余地を与えるべきだと思う。

Monday, November 06, 2006

つづきのつづき

このインプロセッションの中で、アクターが、振るわせるように指を操っているとき、それはダンスとしての洗練されたものではないのだけれども、彼の身体の上でとても率直なものであることをしっかりと感じることが出来た。それはいつか岩下さんがダンスセラピーの現場のビデオを見してくれたときに拝見した、鬱の方が、突然踊りだした瞬間の感覚に似ているように思う。
あるいは、パフォーミングアートがやはり時間芸術として、時間の不可逆性に拠るダイナミズム(リズム)こそその本質ではないかと改めて思った。

あとそこで、アムスに来たら会えないかなーと思っていた人にバッタリであえて、幸運だった。

つづき

ミュージシャンもダンサーもアクターも皆よかった。先週の金曜友人の学校でジャムに言ったとき、違和感があって、やっぱり自分の感じていたことは間違いなかったなと思った。「何をするか」が問題なのでなくて、「何をしようとするか」(志向)がそれとともに身体にとても明瞭に現れていて、そこで、自分が出来ることに対して出来ない振りをする(pretend)と、不協和音を聞く様な気分にさせられるのだ。感覚の可視領域の様なものがあって、そこを自在に動き楽しむ身体と、まるでその可視領域に対して、否定的な立場を取り、わざわざあらがっている身体は、とても違う。ダンサーなら様々なテクニックを通じた世界への触れ方が、役者なら演ずるという手法も、当然ミュージシャンなら音とのふれあいが、世界への触れ方の彼/彼女の素直な在り方として、当然既にあり得るのに、ここのところのコンテンポラリーダンサーの多くは、わざわざそれを否定にかかっている様な気がする。

理由は分からないけど

2,3日更新が出来なくなり、どうやら内容に問題があるのか?簡単な内容ならあげられるみたい。以下3回にわけて載せてみます。たぶんcharacter codeがどこかで問題があるのだと。
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無料だから、と言われてインプロのパフォーマンスを見に。
Monday Match -dance & music impro lab
@The Bimhuis
Terence J. Roe(acting), ViolettaPerra, Lilly Klara(dance), Rozemarle Heggen(bass), Paul Pallesen(guitar, banjo), Joost Buls(trombone, lapsteel)

背景にアムスの夜景と、行き交うトラム、列車。パースペクティヴとしての世界観がそこにあり、劇場に足を踏み入れた瞬間にハッとさせられる。

Sunday, November 05, 2006

大人だ

友人CとCと3人でインディッシュレストランへ。たらふくカレーを食べる。おなかパンパン。
学校を見学したいのです、とディレクターにメールを送っていた。経験的にやや感情的に書いた方がいいだろうと一週間ほど必死にひねって書き連ねておくったら、まるで大人に「あらそういいわよ。クラスもとってみたら?」なんてさらりとした返事が来る。まだまだ青い自分。

weekend

休暇2日目(いいのかこんなんで)。先日凄い神経痛が出たので、予防でもう一回休みかしら。こんな牛歩戦術で人生は実るのかしら?でもそれなりに書かねばならないものなどを少しずつ手をつけている。航空券のリサーチなどもボチボチ。アムスの人はカーテン開けっ放しが多く、向こうの家で掃除をしているのが見える。

Saturday, November 04, 2006

久々に関西弁を聞く

愛媛生まれで東京へ行って、ロンドンへ言って、今アムスにいる人に出会って、久々に関西弁を聞く。さすがに京都に6年も住んでると、関西弁独特の人懐っこさが耳に気持ちよく、懐かしくなる。

なんかだらだらしていたら、何もやる気が無いのでネット徘徊。昨年なので、古いけど、レイハラカミインタビュー。そうだようなぁ、京都にいると、変なライバル意識とか持たずに作品を作り続けられるから、僕もやって来れたのだと思う。
ドラビデオ、やっぱ面白いなー。dvd欲しいなーお金があれば。

Thursday, November 02, 2006

船をよく見る

朝起きたら微妙な気分で、クラスに行こうか迷っていたら、行くべき時間に突如として大雨が降り始めて、諦める。書かなくてはならないe-maiを窓辺に座って書いていると、外では色んな船が川を走っていく。wikitravelを読んでいたら、日本は島国なのになぜか船での交通が発達していない、不思議だ、と書かれていて、そうだなと思う。

Wednesday, November 01, 2006

日本のバレエダンサーも大変なのだと知る

Wienで知り合った友人Sが偶然来ていて、飲みにいく。彼女はコンテのダンサーではなく、バレエダンサー。日本のバレエダンサーについて、いろいろと話を聞く。今まで、少なくともコンテのダンサーよりは裕福だと思っていたが、決してそんなことは無いと聞き、驚く。国立でないバレエ団に所属する多くのバレエダンサーが、給料をもらうどころか、お金を払って所属しているのだという。そんなバカな話があるだろうか。国立でも(そう書いたらどこか分かってしまうのだけど)一月に1500円とか、まるでお笑い芸人の世界である。そんな訳で、日本のバレエダンサーの多くは海外に出ざる負えないのだ。悲しすぎる話。

こんな風に日本語でたくさん話した後はどうしても英語が聞き取りづらくなったりして、いつもその調整が辛かったのだけど、友人Cは凄い聞き上手で、帰ってから、拙い言葉で少しずつ喋り始めることが出来た。彼はスイスエアーでフライトアテンダントとして働いていたことがあるのだそうで、何かそういう、会話の最中に常に相手へのリスペクトを含ませていることを感じる。彼はその仕事でお金を貯めてカリフォルニアの演劇学校に行ったのだという。実に人間が出来ている。

going back to my sweet home town, Kyoto

Life is miracle. I was selected as a participant of Pointe to Point program in Warsaw, the organization gives me a ticket from Osaka to Warsaw, so I can go back to Kyoto with my ticket! It seems one week holiday in Japan! Take a break in the travel :) I am staying here, Amsterdam till next week, then leave from Paris on Tue. See you again people.

Monday, October 30, 2006

川ばかりの街

アムステルダムは川ばかりの街。マリファナと売春が合法の街。同性結婚も合法の街。とめてくれている友達Cは3歳年上で、ゆったりしていて、話していて気楽。彼によると、"Haji!"とはスイスではくしゃみの音(日本語ならハックション)だそう。
自転車を貸してくれてとても助かるのだけど、シートが固くてお尻が痛くなる。

Friday, October 27, 2006

Japanese Restraunt "Yamato"

といってもラーメン屋で、久々にだらしない食事をする。名物(らしい)味噌カツラーメン。といっても、味噌ラーメンにカツがのってるだけ。味噌ラーメンはしっかりした、関東っぽい味噌ラーメン。狭い店内の雰囲気も、「美味しんぼ」が並んでいる感じも、日本に帰った感じがする。ガツガツと食う様を隣の白人ビジネスマンに白々と見られるが、まあこれが本場なのだ。

Thursday, October 26, 2006

Jannete Panette Ballet Classes

I was taking the Janette Panette Ballet Classes this week. Actually, the reason to come to Brussels is taking that. In Vienna first time to see her and totally moved her classes. (I kicked Sussane Linke's reseach project for that :) What unique point is that her way aims to "in between" the pas. Most of teachers who taught me concentrated just telling "pas", means the pause not as movement, or a "final goal". But generally she tries to show "how to move it", mechanic, and "what is your individual problem", very concrete point. That makes us very clear to see. I love her, and would like to invite Kyoto, sometime....

受かった!

ポーランドのプログラム受かった!奇跡だ!24/11-2/12、warsawで、travel cost、accomodation、food、全部でます。それよりなにより、そこで新しいコネクションが出来るでしょう!クワクワ!

Wednesday, October 25, 2006

この先どうなるのかなぁ

不安になったり元気になったりあっちへこっちへ。
Wienにいったらどうなるかわからない。でも行きたい。どうしたらいいのか分からない。バスのチケットは買ってしまった。

ポーランドのプログラムのディレクターからメール。e-mailで受け取るか微妙だったけど、「Application受け取りました。これから熟慮(consider)します。ビデオのリンク先を教えて下さい。」とメールがくる。へー。一応出してみるものだ。結果は分からないけど。

ブリュッセルの街が好きだ。大好きだ。
子供たちが笑顔をたたえて走り回っている。人が人と向き合っている。トラムの中でたくさんの風景をみた。イスラム系の男の子が白人のおばさんの荷物を降ろすのを手伝っていた。イスラムのおばあさんがのってきたら、座っていた白人の若いお姉ちゃんが立ち上がって席を譲った。今日スーパーにいったら、白人のお父さんが、レジ係の黒人のおばさんに挨拶を返さなかった息子と娘をしかっていた。でもニコニコと笑顔でお父さんに話すおばさん。
当たり前の風景に思えてしまうかもしれないけど、すぐそばのParisなら、絶対に見られない風景だ。自分が自分としてここにいることにここなら何の違和感も感じずにいられる。

でも僕はWienにいきたいんだなー…

An Evening for P.A.R.T.S.

@ Kaaitheater
Anne Teresa De Keersmaeker & David Hermandez "Penture"
Mette Ingvartsen "Manual focus"
Salva Snchis "India"
Johanne Saunier "ERASE-E(X) part2"
Trisha Brown & Lance Gries "Lateral passs - passed on"
Tarek Halaby & Sue-yeon Youn "Love. Death. My life with Ting-yu. Oh wait, I am you"

Keersmaekerを生で見るのは初めて。日本舞踊なんかと同じように、ある種の重ねた年齢が生み出す力を感じる。ここ最近のRosasのどうしようもない作品群よりは楽しめた。
Trishaのレパートリー(実際には基にした作品だけど)は面白い。Offバランスの瞬間に生まれる「ゆらぎ」に志向が向かっているのを感じる。これがフォーサイスだと、OFFは、極限的な身体性の誇示に使われているだけだ。Angersで少しでも学べて本当に良かった。
友人Sを舞台で見るのも初めてで、確かにいいダンサーだなと素直に思う。ただ明らかに日本人体形で、背の高い西洋人などと並ぶと、違いが際立ってしまうことは確かで、どうやってそれを「売り」にしていくのか、というところがこれからの道のりなのだと思う。

京都の友達Mにばったり劇場で出会い、「今とても不安なのです」と話したら「これから冬で公演も減るし寒いしテンション落ちるのだから、あまり気分が良くないなら一旦帰ったら?」と言われる。そういわれると意地でも頑張りたい気持ちが(少し)芽生える。

Sunday, October 22, 2006

森下真樹 固執

Leslie Mannèsのプログラムと一緒に森下さんの作品も見ていて、落ち着いて感想など書こうと思っていたのだけど、あれやこれややることがあって、いまいち出来ないので、諦めてメモ的に書いてしまうことにします。

お茶の作法をパロディー化した作品で、茶碗をまわす代わりにペットボトルを振り回す。そんな作品。ご本人にもお話しさせて頂いたけど、ビジュアルの展開の仕方がギャク漫画。いわゆる「すんぽろぴょ〜ん」的な感じの展開。ということは、日本人の観客にはこのリズムだけでコミカルな感覚が伝わる訳である。スイス人の友人Lは「驚いた」と繰り返してばかりだったので、どうもその辺の共有部分が無いと、彼女の良さが伝わりきれないのではないかなー。 Leslie Mannèsの作品がコンセプチュアルで、それが先に上演されていたから、ついついダンスの背後へと志向が向かってしまう状況もちょっとついてなかったように思う。

ただ、リズムに身をゆだねている感じは、日本人のコンテンポラリーダンサーが未だに持っている独特な感覚であると思う。これは舞踏ダンサーの多くもそうだけど、行為が行為そのものとしてある持続性を持っている。「行為-目的」の対称関係として、断続的に出来事が身体で発生する状況があまり見られない。よくも悪くも日本人の特徴であり、再確認出来て良かった。

初日だったので、緊張されていたのか、いつかアートコンプレックスで拝見させて頂いたときのように、もっとはじけられたら、結構うけるのではないかな、とも思った。

oui oui oui!

朝、Chrisa Parkinsonのクラス(Chaleroi Danses)。床に這いつくばって相手の足下だけを見るエクササイズ、それから目をつぶって相手の運動を記憶し、再生するエクササイズが面白かった。後者は、一緒にやっていたパートナーがとてもいいことを言ってくれた。僕もそうなのだけど、対外皆触ることで「運動の絵」を記憶しようと努力するのだけど、そうすると、スピードとか、そういうリズムまで記憶出来ない。逆にリズムに集中して、ただそれだけをコピーすることだって、一つの記憶の仕方なのである。なるほど。優しくていい先生だった。
家に帰ってランチの後、いつかku:nelに紹介されていた"GIGNOL"というフレンチ・マリオネットシアターが家の側に来ていて、いそいそと見に行く。さすが日曜日で、子供いっぱい。雑誌の記事通り、終止舞台上から観客に話しかけるスタイルで、叫び続ける子供たち。"comme-ca?" "Oui!" "Non!" "Guignol!"とか、フランス語分からないのであれだけど、聞かれた質問に具体的に答えていたり。日本で言えば紙芝居なんだろーなーそうかヨーロッパにはまだこういうものがしっかり残ってるんだなーいいなーとか思う。そういえばAngersにいたとき、street performanceフェスティバルで、広場で手回しオルゴールに合わせて、観客全員が童謡を大声で歌っているのを思い出す。日本では絶対見られない雰囲気。
帰り道男の子が、興奮覚めやらず、"oui oui oui!"と絶叫しながら走っていく姿をみていると、何かを欠いてしまった自分の国をちょっと悲しく思った。

Saturday, October 21, 2006

あとそれから

昨日Kaaitheaterの方で、"Nightshade"というプログラムも見た(チケットが買えなくて、2時間も前から劇場の前で待って)。Ghentという街の"Victoria Theater Company"のプロジェクトで、8人の有名な振付家に、「ストリップ」をテーマに作品を作ってもらうという企画。Vera Monteroのピース初見。funny、でもこれってピナがやってたイメージそのまま(女性が体中に風船を付けて笑ったり話したりしながら割っていったりする)じゃない?パロディーもコンセプトに入ってるのかしら?あとCaerina Sagnaという振付家の作品が印象に残った。指揮者が突然立ち上がって客席に歩いていき、吟味するように立ち止まってから、一人の女性を舞台へ招き入れる。そして何か耳元に吹き込む。「素人?仕込み?」なんか曖昧なまま彼女は舞台に在って、しかもその前はかなりコテコテのストリップだったから、彼女が脱ぐのかしら?よくわからない。舞台上をドギマギしているうちに、轟音の様な音楽がなり始め、まるで何かを強制されている様な雰囲気で、彼女が困惑した表情を始める。突然幕が彼女の両脇から迫ってくる。さらに頭上からも。大きな悲鳴を上げて倒れ込む。そのあとは、下半身だけが客席に見えている状態で、普通に脱ぎだして、この時点で仕込みと分かる。何かこう言う、微妙な感覚って、寺山修司っぽいというか、でもこれだけ丁寧に作り込まれてると、興味深い時間だった。

Leslie Mannès "Delusive Figures"/Leslie Mannès&Manon Santkin "Byproduct 3"

Leslie Mannès "Delusive Figures"/Leslie Mannès&Manon Santkin "Byproduct 3"
at Kaaistudio 19/10/2006

Lesile MannesはPARTS、SEADを出た若手の振付家で、いわばコンテンポラリーダンスにおける王道的な経歴を持ったヨーロッパによくいるタイプの一人である。キュレーターが上演前のイントロダクション(途中で飽きて退席したけれども)通り、新しい世代の一人であり、ヨーロッパの同世代たちの傾向と方向性は重なる-ヴィジュアルアートとの接近である。身体、またそこにあるあらゆるオブジェを、コンセプトへとつなげていく。
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この作品は、徹底的に身体その物理性を全面的に押し出していた。そこにあるのは運動し、志向する「肉の塊」なのである。冒頭及び何度も繰り替えされる、かがめた背中だけを平面的に示すシーン。細長い手を使って平行移動する様は、奇怪なモンスターのようであり、つまり興味深い「絵」を提供する1つのオベジェクトである。
あるいは、1人のダンサーの体を2人のダンサーたちがつまみ上げたりひねったりする様も、あからさまに「肉」であることを示そうとしている。持ち上げられ、引き延ばされた乳房は、絶対的に性的なイメージから遠ざけられようとしている。あるいは、顔面の筋肉を動かされ、本人の意思と無関係な表情を作らされる様は、過疎的なオブジェクトとしての「肉」である。
プログラムに書いてある「作品のテーマ」の通り、こうした身体性は現代人の身体、また身体への向かい合い方を良く暗示している。鷲田清一さんが「悲鳴を上げる身体」で用いている言葉を借りれば、「観念でガチガチになった身体」である。身体が抽象的な物質、肉として捉えられる感覚は、西洋医術、死体の解剖によって始まり、作り上げられた思考のそれである。都市のシステムの中に生きる私たちは、もう容易にこうした肉に還元される前の身体へ戻ることが出来なくなっている。いわば地に足がついておらずふわふわと絶えず浮かんでいる様なもので、こうした思考は大変脆い。
ではこの作品は、そんな現代人の弱さを提示するだけの悲劇なのか。いや、彼等はとてもキレイに小さな希望も指し示すことを忘れなかった。棒立ちになったダンサー。別の1人のダンサーが紙箱(中にまた別のダンサーが入っている)から投げ渡された服を次々にテープで貼付けていく。モード、着せ替え人形の様なオブジェクト性の提示である。しかし、ニット、スカート、ハイヒール、サングラスを棒立ちのダンサーに貼付けていたダンサーは、次に全く同じものを今度は自らに身につける。そして、スタスタとハケ口へ歩いていく。着せ替え人形の様な、同じ肉が、しかし「動的」であるということ-どのような状態・状況(観念でガチガチになっていたとしても)に会っても、確かに「生きている」ことを歩き出すその身体は示しているのである。生きていること、動的であるということは、膨大な可能性を私たちが常に持っているということだ。
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秀逸な作品であり、これからの作品もとても興味深いものだが、しかし同時に、考えさせられるものもあった。劇場のロビーで展開された彼女のもう一つの作品が分かり易いのだが、ダンサーたちの身体は常に何らかの目的と対称関係にある。インスタレーションとしてのこの作品で、彼女たちは中央に置かれた台に、幾つかの写真を配置し、そして入れ替わり立ち替わり次々に並び方を変えていく。その配列が、様々なメッセージ性を浮かび上がらせる、おそらくそれがこの作品のコンセプトである。僕が気になっているのは、この写真を運んでいくそのときのダンサーたちの身体である。「運ぶ、並べる」と行った目的に対して、彼女たちは忠実で、スキが無い(ムダな動作を極力排除しようとしている)。ゆるみがないのである。劇場で行われた前述のパフォーマンスにおいても同じ様にダンサー達の身体は、まっすぐにその目的へと向かっていた。
 これはMeg Stuartの「SAND TABLE」を見たときにも感じたことだが、近年のヨーロッパ人アーティストの作品におけるダンサーの身体性の一つの傾向であるように思う。何を言いたいのかと言えば、こうした思考は、とても狭量的であると思うのだ。持続する時間のただ中にある(或は持続する時間そのものである)身体は、可能性の海を常に漂っている。身体にゆるみがある時、私たちはそこに、そうした可能性への開きを感じることができる。様々な事象が身体に飛び込んでくる様を見ることができるのだ。それこそが、「作品」や「芸術」と行った制度を超えた彼方へ向かう道を与えてくれるように僕は思っている。

皆大変だな

さすがに3ヶ月を超えれば、英語にも大分慣れてくる訳で、そうすると逆に友達の話のディーテイルも理解してくる。ああつまりは、皆大変だな、としみじみ思う。僕らは、まるで皆、プロフェッショナルとして仕事を始めようとしているか、まさに今始めた様な、そういう微妙な位置にいて、それはここから右にも左にも振れる。
人生はまだまだ分からない。でも友達と話せることが、本当に幸いだと思う。

Friday, October 20, 2006

フレイ・ファウストのクラス

2度目のブリュッセルは、友達のおかげで楽しい。家の周りが凄くきれいで、歩くだけで愉快。それに、前回来たときの記憶が会って、ある程度慣れがあるので、割と気楽に動き回れるのもあると思う。パリよりずっと心地いい。東京の街に近い印象。

昨日今日とフレイ・ファウストのクラスをとった。昨日はシークエンス、これも面白かったけど、今日のエクササイズはとても興味深かった。4拍子を使い、1、2で移動し、3で、身体の1ポイントを持ち上げる。4は呼吸としてのポーズ(別に多少動いても構わない)。これをまずは一人でやる。次に、このポイントを、パートナーが触れる。「ともに動くこと」をこの時点で彼は強調していた。そして次に、ポイントに体重を預けてみる(実際はジャンプして飛び乗る)形に発展。
ニタに習った、相手のアンカーを感じるという志向方法を実践するための、非常にシンプルで、安全なエクササイズ!!どうやって相手の身体に入るか、相手の身体を受け止めるか。瞬間に感じ、考えていく。相手の状態(支え、位置)を想像しながら(imagine!)。

Wednesday, October 18, 2006

寝れないので考えていたこと

リスボンの友達の友達の家にきたけど寝れないのでぼんやり考えていたこと。

友達Gが友達Vと電話で話しているのを聞いていたら、「世界の男性ダンサーのどれだけがストレートか。」みたいな話題が出てて、確かにトランスジェンダーの割合が多いことを思う。

ということは、ストレートの僕が、場によっては「少数者」としてそこにいることも考えられる訳だ。

日本では「少数者としての」トランスジェンダー問題だけが力を持っているけれども、上の様な状況になれば物事は全て反転する。折り返し地点をどこにするかでも変わってくるけど、例えばそこでトランスジェンダーについて考え続けたいならば「少数者としての」という「」でくるまれたすべてを削除してトランスジェンダー(言い方は変わる可能性があるけれども)を考えなければならない。あるいは、「少数者としての」にこだわるならば、そこではストレートについて考えることになる訳である。

ぐるぐる。そして寝れない。今日ブリュッセルへ。

Sunday, October 15, 2006

farewell porto

i left porto today. now staying my friend's home town. leaving from lisboa to brusells on wednesday. farewell porto, my lovely warm city. cheers.

Friday, October 13, 2006

終ったと思ったら

今度は来年にむけて日本語で文章を書かなくてはならない訳で、デスクワークやっぱり嫌い。

Thursday, October 12, 2006

my longest english essay

i wrote down the essay for application of one project.
this is my logest english essay until now.:)
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Question for the "visual". In your "xxxx" program, where various artists are gathering from Europe and Asia, I would like to challenge about this theme with other participants. Needless to say, we can't imagine contemporary dance without the visual. The spectators come to the theater to see dancers' movement(and/or something related it) mainly. Though if there is a beautiful ceiling picture in the historical theater, no one just observe it while the performance.

I have learned the importance of the visual in the contemporary dance through various opportunities. For example, on 2001 when I participated in a research project of Philippe Decoufle, one of represented French choreographers, he taught me that the strong image, which can offer the stimulation, freshness and involvement of imagination to the spectators, makes the performance very interesting, and to find out that we must not forget the effort every time in our creation. Also in the classes of the University, I learned that trying to have a feedback in visual for my own dancing and choreography such as using a mirror and video camera, is certain good way to raise the quality of them.

However, simultaneously, I have had interest in the dancers' sensitive sense which can not be appeared easily in visual, according to attending some workshops of various artists. Saburo Teshigawara's own method, noticed me that our body can receive our aim and move flexibly even if we are extremely tired. Studying contact improvisation, with Kosei Sakamoto, Andrew de Harwood, Nita Little and so on, I discovered my body can feel the extensity among people and what happens there. In the ballet class by Misako Terada and Janette Panette, I was aware of my habit to use too much power to move unconsciously and learned how to release it. Of course, originally these workshops aim to refine the movements as visual. But it is sure that they also offer the way to notice the sensitive sense of our body which we hardly experience in our daily life.

In addition, I also have studied about the Phenomenology. Especially I was affected by Merleau-Ponty's thought and that let us know that, as describing the state of things carefully, we can understand the detail of our situation(relationship with social, politics, system of knowledges and so on) and our aim more. And I noticed that this approach in describing of Phenomenology is close to the approach in dancers' sensitive sense which I learned in some workshops. A common point among them is strongly adhesive persistence for 'the moment.' What happens right now, here? In other words, if we can find out a way to make dancers' sensitive sense open up as in intelligent possibilities, using it not only for getting refined movements, we can clarify the relationships between us and the various knowledge systems or intelligent thinking movements such as social, politics, ethic and so on.

Reflecting that idea, my latest piece "parole" aimed to reveal the minute movements in our communication to see how people are confronting to the others. In the choreography, we use the technique of contact improvisation mainly, but we did not decide the detail before the performance. In accordance with that, the dancers have to see and guess how do they move together and accept each other carefully. Then spectators can find attention and caring of them in between this process, and that proposes the approach to the ethic. (Hajime tried to plan to adjust the relationships between 'creation community and spectators' to understand each other as the others, as the public area. Tohru Inekura, Engekijin 22nd)

I have visited European countries 3 times since last year. Especially this year, I took part in danceWEB intensive study program(Austria, Wien), and that offered me the opportunities to touch with the real European dance scene, seeing a lot of performances, taking so many workshops and directly exchanging opinions with the artists in person. In accordance with this experiences, many artists of today are creating his/her work having the question for the visual in the similar way as me. Jerome Bel explained that he started from the question for a 'spectacle' in his "Pichet Kunchen and Myself", which was very symbolically for me.

I think this question is from that most of contemporary dance in 90's concentrated to make 'spectacle', but they could not propose the idea of solution for the miserable politic problem such as 9.11 and Iraqi War. Or, as we know, the same of spectacle in the media, explaining looks/sounds obviously, encouraged US nations to sustain to start the war. We are not already living in the optimistic world, being not satisfied with just delighting spectators.

The place is where the next generation gathering, your "xxxx" program. Participants would share that theme there, I think. So I would like to propose my idea, dancers' sensitive sense can be connected various knowledge system or thinking movement, and would like to join the process of seeking a new way of contemporary dance. Meeting people who have various back ground, exchange the numerous opinions and ideas, try and experiment together. I am expected to be pleasure there.

Thank you very much for your consideration.

Hajime Fujita

Monday, October 09, 2006

はー大変

例によって締め切り間際のapplication+motivation letter執筆。もーいつもこればっか。受かるか受からないか分からないものにこれだけ労力をかけなきゃいけないって(仕事なんだから当たり前ですが)、はー。
書き損ねていたけども、日本人ほど海外に出てきても自分の国のことを忘れられない国民はいないと思う。どこにだって日本車が走ってて、日本の電気製品が使われてて、しまいには皆寿司作って食ってるし。

Sunday, October 08, 2006

メグスチュワートを見に行った

下でも書きましたが、メグスチュワート初見。20分ほどの短い作品でしたが、いかにもヨーロッパらしいきれいな作品。面白かった。でもやっぱり、こうした傾向をどう変化させて、身体が語る可能性を提示出来るのか、自分の手法について今一度考えた。劇場のそばの建物のカフェやら洋服屋三らがまとまって入っているところが凄く良かった。久々にリラックスしてコーヒーが飲めた。
http://www.teatroaveirense.pt/
昨日はコンテンポラリーダンスミュージアムへ。Gegoというドイツ人モダンアーティストの展覧会を。抽象的な線が作り出す論理空間のメタファーと、同時に同じ線が浮かび上がらせる、論理空間からのダイナミックな超越。この手の作品は好き。

first time to see Meg Stuwart's work

I went to Aveiro to see Meg Stuwart's work, "Sand Table". This is first time to touch with her performance and really interesting. But it also reminded me the question about the spectacle, "how does the visual work in Contemporary Dance in important?" In the performance, two dancers were just manupulating sands, I could not get what 'their body' spoke to spectators.

Thursday, October 05, 2006

shooting video

started shooting the video. today we made short video, i spoke some portugess sentences without knowing the meaning, gui spoke some japanese like same. afeter filming, put the meaning on subtitle in english. there is the difference between attitude and meaning. this is a good way to be aware some aspects of languge.

Wednesday, October 04, 2006

better and better

After the performance, I got fucki'n sick again.
But I feel better and better slowly.
Hopefully tomorrow start again the research.

Monday, October 02, 2006

Sweet and Tender Collaboration #2

Sweet and Tendr Collaboration#2 "Plus Three" photos







every photos by Daniel, thank you!!

親子丼をつくる

僕らがperformanceをしたクラブのオーナーは本当にいい人で、大柄な体形からも、とても応援してくださっている東京のSさんなどを思い出させる。「またPortoへきて、ここで何かがしたいです」というと、「使いなさい。(Use it!)」と言われる。
そんな彼が今日は僕らの家にくるというので、韓国人の友達は寿司を、僕は親子丼をつくって、日本食ディナーにした。(寿司はフェイクだけど、べつにそれでおいしいので不満なし)親子丼は簡単だし、材料を手に入れるのに困らないので、フランスでもつくったけど、普通に食べてもらえるので助かる。rice sauceと説明するのが手っ取り早い。
で、どうして彼がわざわざ来るのか、まあ親睦を図りにかなーとか思ったのだけど、こんな深夜まで友達たちとあーだこーだ言い続けている姿を見る限り、様は仕事を抜け出して一息つきたかったのかもしれない。そうして若い人たちのところにすんなり混ざっていく姿がまたかっこいい。
不眠が続いていて、昨日からとうに36時間以上は寝てない。頭痛がひどい。こういうときに限って日曜日で、薬が手に入らないのだから、本当についてないものだ。頭痛薬を細々と投入するけど、内蔵に絶対負担係ってくるので、心配。

Sunday, October 01, 2006

いけない、疲れている

例によって調子を崩す。不眠と頭痛。うーん。一生僕はこれとつきあわざるおえないんだろうなぁ。
ぼんやりしてたらやること山積み。頑張ろう。友達が皆頑張っているように。僕なりに、精一杯。

Thursday, September 28, 2006

舞踊のリアリティ

Visual Artistと共に作業を過ごすと、彼が確かにVisualが必要で、それがなければ何も志向出来ない事実に愕然とする。もちろん全てのアーテイストがそうであるとは言えないが、彼の場合はそうで、例えばこちらが会話で振り付けのイメージ(想定される、期待されるぼんやりとした在り方)を提示しても、彼には、それが確かな「イメージ」(画像)としては成立しないのである。なぜなら、舞踊手は、そうした語りの仲に既に身体的なリズム(例えば呼吸)や感覚を刷り込ませているからで、それは同じダンサーという生き物の間でしか伝わり得ないものだからだ。
今日のコンテンポラリーダンスに置けるヴィジュアルアーティストの活躍は、誰もが既に知るところである。僕自身はそうしたアーティストの作品に多く触れてきたかどうかは定かでないが、少なくとも僕自身のクリエイションの場面にも、アーティストとしての交流や、様々なワークショップを通じて、直接なり間接なり影響を与えている。
いや、見回せば、実際のところ、いかにコンテンポラリーダンスがそのヴィジュアルによって社会に流通されているか。舞台写真を多用したアドはどこの都市にもあふれ帰っている。スペクタクルの問題は決して切り離されない。
けれども、である。舞踊家の感覚、その繊細さが切り開く様々な知との交差点は、決して視覚だけに還元出来得るものではないだろう。僕らの世代が考えるべき(先行するアーティストから引き継いで考え続けるべき)問題が、きっとこの辺りにある。

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Real Tokyoにあった浅田先生の記事が面白かったです。
ミニマル・ミュジサーカス
——アルディッティ・カルテット+白井剛によるケージ

Wednesday, September 27, 2006

I make my WS on Oct. here

I make my WS on Oct. here, Porto. The date and detail is not sure now. But maybe the WS aims to "improvisation" and "creative process", I think.

大分調子がよくなってきた

大分調子が良くなってきて嬉しい。いいタイミングで友達が送ってくれた葛根湯が届く。きつい薬から徐々にこちらに乗り換えれば、きっちり良くなるだろうと思う。

Monday, September 25, 2006

クリエイションは続きます

風邪の調子はまだ完全によくなったとはいえないけど、それでも金曜日の本番にむけて少しずつクリエイションはすすみます。毎度ながらあっちへこっちへ寄り道しつつ。
気がついたらもう10月になろうとしている。日々がすぎるのは早い。
僕はやっぱりものづくりが好きで、でもダンスの勉強はしたいし、こういう
ことをどう両立させていくのか。すごく難しい。
さすがにヨーロッパにいると、ヨーロッパの大カンパニーのうわさ話なんかも耳に入ってくる訳で、そうするといまいちオーディションなんかに足が向かない。

went to lisbon

this weekend i went to lisbon to see my friend performance. you know, there are so many slopes there. from theter to go to the house of the friend of my frinend, we caught a taxi, it was really like a Disney Land atraction, up and down, up and down...!! enjoyed so much, love in portugal.

Friday, September 22, 2006

ようやく旅の目的を

風邪で調子を崩していたのだけど、ようやく今日少し作業に加わる。自分の意見をしっかりといい、相手の意見を聞き、そうしてコラボレーションしていく、こういう機会を持つことが、この旅の一つの目標だった。ともかく嬉しい。

continuous

I have wanted to mention about japanese specific way to approach of the dance phrases. now is not really good time to write, but just here note something.
i have felt european dancers tend to receive some phrase as 'subject'. but for me, phrase is not so, when i catch it, the pharase has already moved in my body or explored by the phrase itself. it is difficult to explain. in the other word, it tends to speread into my body. that is automatically, but yes, actually this is my way of receiving at the same time.
and the phrase is the sequence, anytime as you know. so, the choreography is moving on my body (and also in my mind) every time when i am dancing. it is not just as 'subject.'
what is the difference between two ways? when you recieve it as 'subject', you divide the phrase between 'subject' and others. but for me, nothing dividing, it still be unite or moving with numerous energies and possibilities. it means, there, continuous.
i think in the Butoh, japanese dancers also moving like that, with involved by some emotional or images. because of differences, european dancers have interested in butoh.

Tuesday, September 19, 2006

a photo on 555 in Porto



I am so glad to meet up my frineds like that.

Monday, September 18, 2006

sorry for my littile e-mail to you

I got some e-mail from some of you, thank you for your warm heart. I am sorry for my little e-mail. Sometime I am busy, but sometime not. Yes, seriously it is because of that my lazy :( I am your friend, anytime. Don't feel being far from me. Keep in touch, warm hug.

Sunday, September 17, 2006

Sweet and Tender Colaboration #1

テクノパーティーのおまけの様な感じでやりました。時間がなくて、自分のはあまりいいのが出来なかったけど、人がたくさん来たし、楽しかった。一人1euroの入場料で、500人来たから500euro、4人で割って125euroの儲けは、来月の食費になるでしょう。助かった。





Friday, September 15, 2006

Portoにきた

Portoに昨日ついた。Ryanの飛行機は、ようは高速バスの飛行機版みたいなもので、まあそう思えばそれなりのサービス。けれども4時半におきて始発のメトロにのってで、もう頭ふらふら。けれどもPortoに到着する直前、厚い積乱雲を抜けたら、とたんに視界が開けて、広大な海岸線と、それに沿って広がる町並みが飛び込んできて、あまりの美しさにはっとした。フランスを無事抜け出せたのだった。
これが同じヨーロッパなのか?と思うほどに違う。どちらかというと沖縄の方が雰囲気として近い。
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ふらふらの頭で土曜日のパフォーマンスの下見。照明を貸してもらって、狭い部屋だけど、それなりの雰囲気を作る。一応タイトルは"here/there"としようと思っていて、しばらくこのテーマにこだわりたいと思う。今日一日なんとか振り付けを考えて、出発点を見つけたい。

Tuesday, September 12, 2006

TVをつけたら

ニュースで9.11を。YouTubeで色々みたらプロパガンダばっかり。でも"one explosion, huge explosion, collaps building!!"と絶叫する人々の姿は時を巻き戻させられた。

Sunday, September 10, 2006

方法序説

眠るのが苦手な人が、風邪だからといって寝続けられるわけはなく、この旅の間に読み返そうと思っていたデカルトの「方法序説」に目を通す。実に中学生以来。こうして読み返してみると、発見が多く面白い。思考の流れ自体は現象学に引き続くものがあるものの、その荒さはたしかで、いかに多くの人の苦労によってその後の思索が進められてきたかが分かる。しかし彼の謙虚さや鋭さは、今の状況に対してもあながち離れているとは言えず(例えばスコラ哲学への批判は、マルクス主義に対するものとしてももちろん考えられるし)、平易な言葉で人々へ語りかけようとする姿勢も、共感を持つ。

Saturday, September 09, 2006

ついにというか

いつかは具合が悪くなるだろうなーと思っていたらやっぱりここに来て体調崩しました。うーん。
"parole"について「演劇人」という雑誌に記載があるそうで、大変気になるのですが、こんな状況では全く確認出来ず。こっちも、うーん。

Thursday, September 07, 2006

danceWEBでの写真

僕はカメラをもってなかったけど、友達がとっていた。無断で転載:) みんな有り難う。



パーティーばっかりだった。飲んで遊んで踊りくるって。




最後の週は疲れ果ててこんなだった。




Wienの街が好き。やっぱり好き。これはたしか最後のサロンの後。

Monday, September 04, 2006

Notes about ImpulsTanz workshops#1 week1-week2

帰ってからレポートを書くことを考えて、wienで受講したワークショップについてさらっておこうと思う。

week1 17/7 - 21/7
1. Olme, Partnaring Adv.
advといいながら、内容は中級程度。基本的に幾つかの短いピースを練習するのみ。二人で走ってお互いをリフトしたりもたれかかったり。先生は明るくていい先生だった。
2. Antony RIzzi, Forsythe Repertory Adv.
Gouldのゴールドベルグに振り付けたピース。去年と同じ感想、彼の振りはやっぱり他の振付家と違う。それは、ちゃんと運動を根本的に捉え検討しているからだろうと思う。インタヴューなどで彼自身がよくふれているけど、現象学的な視線を確かに感じる。
でも先生はあまり僕の好みで無かった。素晴らしいダンサーなのだろうけれども、教えるということは、もっと丁寧なコミュニケーションを努力するべきなのではないか。人によっては合うのだろうけれど、僕は少々辛かった。
3. Janette Panetta, Ballet for Contemporary Dancers Int.
一人の先生を除けば、日本でいいバレエの先生に会ったことが無い。形以上に身体で起きている出来事の豊かさは、学ぶ喜びを醸成するのだけれども。Janeteは、そいう意味で本当に!!いい先生だった。革命的、といってもいいくらいだった。例えば足を後方に伸ばして静止する時。彼女はまず上半身をしっかり倒して、それからそのカーヴを使って、必要なだけ起こしていく様教えてくれた。ルルベは、まず重心をまえにずらし、そして上方に立ち上がって行くことを教えてくれた。あるいは僕の癖である、パッセの際にトルソを引き上げる癖を、根気づよく何度も何度も指摘してくれた。そして彼女は頑張っている僕の姿を決して見逃さず、その度にほめてくれた!!「JAPAN!!, Good!!」と言われるたびに、どれだけ嬉しかったか。何せ僕はレッスンやクラスというものが苦手で、これまでほめられたことがまず無かったのだから。必ずまた会いたい先生に出会えたことを、本当に嬉しく思う。

intensive1 22/7 - 23/7
Andrew Harwood, Contact Improvisation Int.
去年も受けたHarwood。彼のクラスは可もなく不可もなく、コンタクトについて基本的な内容をひととおり確認出来る。あるフロアへのアプローチの手段が、これまで疑問に思っていた内容だったので、助けになった。

week2 24/7 - 28/7
1. Ted Stoffer, Contemporary Technique Int.
Tedは今年京都に来ていたのだが、忙しくてお金もなかったので受けれなかった。AIRで会った時穏やかな雰囲気で印象に残ったので、試しに受講してみた。朝のクラスだというのに、ヨガからインスパイアされたというきっついストレッチは、正直少し体を痛めた。この後の週で右足がひどく痛んだ理由はここにあったと思う。振り付けはかなりフリーで、クラスのレヴェルに応じているのだろうけど、今ひとつ方向性が掴めなかった。
2. Janete Panetta, Ballet for Contemporary Dancers Int.
week1に同じ。
3. Elisabeth Corbett, Forsythe Repertory Adv.
Antonyとは全く反対の、とても穏やかな先生。みんな言っていたけど、丁寧すぎて、クラスが遅すぎ。一日2時間、五日間のワークでは、ちょっと厳しい。もう少し長い期間で受講出来るチャンスがあれば、またとってみたいと思う。受講者に日本人が結構いたのがびっくりした。(去年はYさんと、室伏さん以外会わなかったので。)

Wednesday, August 30, 2006

Thank you for you e-mail...

Wienと違い、一人でいる時間が多く、どうしてもあれやこれや考えすぎてしまう(それがきっと新作のためになるのだろうけれど)。こんなときに友人からの手紙には本当に励まされる。自分が過ごした時間が、ちゃんとそこにあったということが、まるで確かめられるのは、本当に嬉しい。
どうしてWienより物価が高いのか。スーパーマーケットに通ううちに、それはこの国が輸入国だからなのではないのか、と思った。野菜とワインを除けば、かなりのものがドイツなりベルギーなりイタリアなりオランダなり外国から来ている。大してオーストリアでは、水もビールもワインもチーズもハムもソーセージも殆ど自分の国で作っている。これは日本にも同じことがいえるんじゃないだろうか。

Monday, August 28, 2006

skypeInでアパートにつながります。すごい。

skypeのおかげで友人と電話が近く、嬉しい。でもその分遠さも感じる。こちらにきて涙もろくなったのか。けれどそれだけ何もかも大変で、ちょっとしたことに本当に嬉しく思えるのだろう。
去年も思ったし、今もずっと思うけど、こうして自分の国を離れたからといって、自分の言葉を忘れたくない。友人が、娘さんに家で必死に日本語で話しかけ、伝えようとしている気持ちはよく分かる。例えここで、使えることがまずなくとも、これは確かに「ことば」であるのだと。そしてそこに、その「ことば」でしか表しえない美しさがきっとあるのだと。
そんなことも、ぐるぐるしながら、少しずつ、新作への思いも立ち上がってくる。

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なかなかしっかりとした回線に繋げられる機会が少ないので、家でこうしてメモをとっても、サイトにあげられない。

ここは「学校」であるのだとしみじみ何度も思う。皆真面目にクラスにいくし、夜遅くまで皆飲み明かしたりあまりしない。Wienでの日々はビールとワインとフラフラの頭でムチャクチャ踊った夜があまりにも多くて…。やっぱりそれは、既に学校をもう出ていて、それなりに作家として苦労し始めている、そういう人が集まっていて、違った感覚があり、またその連帯感もはたらいていたのだろうと思う。僕は死ぬほど楽しかった。(酔いつぶれた夜はわすれることにしておいて…)

あるいはフランス人の特徴か?ミーティングなどでも静かな瞬間がよく続く。皆あまり自分の意見を言ったりしない。日本にいる感覚に近い。日本人がパリに多く住むのは、こういうことも関係しているのかしら。

Monday, August 21, 2006

angersにつきました

フランスにいながら、メルロ・ポンティを日本語訳で読んでいるというのはなんとも不思議な…。

Angersのことをメモがわりに色々。

とにかくキレイな街。おとぎ話か絵画の中に入り込んだ様な美しさ。パリと違い街にゴミが落ちていない。CNDCの親切さは涙が出るほどで、TGVを乗り過ごして1時間送れて来たというのに、駅で迎えに待っていてくれ、アパートはめちゃめちゃ広いし、環境はとてもいいし。でもここは殆ど英語が通じないので、来てすぐはやっぱり何するにも緊張しっぱなしでした。

物価はWienより気持ち高いけれど、パリのように不自由するほどではない。何せキッチンがあるのだから、食事は自分で作れる。アジア食料品店もあり、これは結構安かったので、そばを作ったり、親子丼を作ったり。

ともかくもここに来て日曜日までの4日間は、Wienでの忙しかった日々と一転、一人の時間を多く持って、リラックスできた。こんな風に目的を持った旅だと、なかなかこんな時間は作れないものなのだから、本当に感謝しなければならないと思う。

月曜日からはトリシャ・ブラウンのダンサーによるWS、どうなるかは今は分かりません。でも楽しみ。

Wednesday, August 16, 2006

danceWEBおわりました

今Wien空港に。これからフランスへ。本当にあっという間に全てがすぎていきました。僕の人生の中で、初めて集中的にダンスを学んだ日々であり、同世代の友人たちと触れ合えた貴重な時間でした。むしろ、これから何かが始まって行く様な、そんな気持ちがいっぱいです。

Saturday, August 12, 2006

これからのことを色々考えます

月曜日のミーティングについて、マチルダと、何人かで話しました。皆それぞれに今のダンスについて思うことはあり、何を話しても聞いてもとても興味深いです。僕はこれからどこへ行くのか、不安と戦う日々ですが、どうにかなると思って前を向いていきたいです。皆も同じように不安を抱えながら、必死にすすんでいるからです。

Friday, August 11, 2006

今日でwsは終わり

今日でwsは全て終了。本当に短かった1ヶ月。もっと皆と色々意見を交わしたりしたかったけど、どうして時間はあっという間に過ぎてしまう。ともかく自分が思っていることに嘘をつかず、辛いときでもそれと向き合って行こうとすること。なかなか状況が好転しないときでも、なんとか乗り越えて学んできたことは、いつだって役立つのだと、またしみじみ思います。そうして少しずつ人のつながりが出来て行くのだろうから。
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ロンドンでテロ未遂があったというその直後、水曜日に飛行機に乗ってParisへ行くのですが…。Passportチェックとか怖いなー。はじかれずに無事たどり着くことを祈ります。

Wednesday, August 09, 2006

ポルトガルにいくことになりました

ポルトガル人の友人が僕の作品を気に入ってくれて、フランスの後彼のスタジオで滞在制作をすることになりました。詳細は未定ですが、コラボレーションをすることに彼が興味を持っているので、何か新鮮な感覚を得られるのではと思います。不安と期待が同じくらいですが、たのしんできたいです。8/16-9/13...France, Angers、9/14-???? Porto。

Sunday, August 06, 2006

マチルダ・モニエがよかった

昨晩Machilda Monnierをみた。かなり面白かったが、フランス語さっぱりで、ドイツ語も少ししか分からないので、detailが知りたいな、と思った。どこかその空気は松田正隆先生の作品に似たものがあり、不思議な感覚がする。
先週か先々週かRioが話していたこととlinkして、また同時にAustriaのダンスシーンについても色々考えた。ドイツと同じように、戦後モダンダンスの崩壊によって歴史が断たれ、接続がないところに「今まさに」生まれでてきているAustriaのコンテンポラリーダンスは、しかしこうしたinternational festivalでの他国の偉大な作品に触れることで刺激をうけ、またあるいはその作家たちはそれを超えていくことを目指していかねばならないだろう。まだ多くのAustriaの作家の作品は全体として稚拙な印象がそこここに思われるが、これから変化の時を迎えることを考えれば、非常に興味深い。

Friday, August 04, 2006

いくつかメモ

自分が忘れないよう、いくつかメモを。
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先週はスザンネ・リンケに会った。彼女のリサーチ・プロジェクトにジャンプ・インできるということで行ったのだが、2週間かけてソロをつくるというもので、どうにも辛く、drop outした。けれども彼女の人となりにどうして衝撃をうけた。エネルギッシュ。大野一雄さんにも通じるある種の神がかったような生の力を感じた。
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今週のコンタクト・インプロのwsは、全てが勉強だった。激しい運動は何もない。他者へ触れていく瞬間になにがおこっているのか、つまりその描写の仕方(現象の穿ち方)をすさまじく多様に提供され、実際それを運動に反映させていく、その繰り返しだった。始まりから プロセス として 変わっていく その出来事を その瞬間に 把握して いこう とする。それは大変な作業で(複雑さの只中にあって、また複雑な思考をそこに与えていこうとする)、しばしば僕はconfusingになってしまい、最終日は泣き崩れてしまうこともあった。けれども僕が知ろうとしていたこと(の凡例)の多くがあり、ここから探索していく場、或は手がかりを得たように思う。

Tuesday, August 01, 2006

今週は

Ground Work, Contemporary Dance Technique, Contact Improvisation、どれも同じスタジオ。Balletをとっていたのだけど、あまりにつまらないのでchange、先週、先々週のJanet PanettaのBalletは本当に感動的だった。生まれて初めて本当に楽しんでBalletを学べた。
昨日superamasを見たけど、昨年のBig 2nd Episodeの方が、構成がしっかりしていて良かったと思う。でもちゃんと楽しめた。

Sunday, July 30, 2006

休暇でした

週末は休暇でした。昨日Jerome Belをみました。面白かったけど、色々考えました。今日はドナウの方に。部屋探しがやっぱり大変そうです。

Thursday, July 27, 2006

さすがにヘトヘトです

毎日3クラスのwsと、21時からのperformanceを繰り返す毎日。さすがに疲れました。皆同じ顔です。週末はoffにしました…。これまで面白かったのは、マギーマランの"Umbelt"、それから昨日みた二人組の座っているデュオ。キュレーターの人って大変なんだなーとしみじみ思う。

Wednesday, July 19, 2006

覚え書き

先日のマチルダ・モニエ他のTalk showについての覚え書き。ここではBalletがコンテンポラリーダンスと如何様な関係で存在しているか、意見が交わされました。興味深かった話は、コンテンポラリーダンスにはリーダーがいないという発言。あるいは、ダンスシアターのダンサーが、しかしそれでもBalletクラスに通っているという、やや皮肉めいた発言。また、フォーサイスが、それを使うのではなく、よりその先へ超えていこうと志向しているなどなど。僕はやはり技術というのは歴史の交わる"場"として捉えるべきであり、我々の世代はよりダンサーが"そこ"で交わしている意識/感覚/志向の運動にこそより注意深く目をむける必要があるのではないか。
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あるいは、こうしていくつもperformanceを見続けていると、確かに自分の好みが大分分かってきたのですが^^; それを「使う」という抽象性は、performanceにおける観客からの逸れ…例えばRosasにおける、どこかダンスの歴史にこそ視点をもった作品…を導きだす一つの要因でもあるのではないか。(特にヨーロッパのダンサーはこうしたことへの注意深さが少し不足しがちなように感じる…人によるでしょうけど。)

Tuesday, July 18, 2006

確かに忙しい日々です。

今日でws2日目。一日に3クラスこなすのは確かに大変です。スカラーシップをとれてよかったな、と思うのは、友達が誰かしらいるので、お互い励まし合ったりできることです。ちょっとしたことでも、本当に落ち着くことが出来ます。今週は、Patnering, Foucythe Repertory, Ballet for Contemporary Dancersです。どれもいい選択をしました。

Saturday, July 15, 2006

少し時間がたちました

初日のRosasのパフォーマンス「春の祭典」は最悪。皆でさんざん悪口をいってました。日本にくると、名前だけで絶賛されますが…。昨日の小さな劇場でのパフォーマンスはよくも悪くもwienらしいというか…。ちょっとrelaxできました。今日で準備がひととおり終わり月曜から本格的にWSがスタートします。気持ちのいい街です。

Tuesday, July 11, 2006

Mumok

今日は朝から時差ぼけがひどく、起き上がるのも大変で、ガバッと無理矢理起こして、Operの前のSparでCoke買って飲んでなんとかする。それからMUMOKにいく。企画展"Why Pictures Now"、ここのところ読んでいた鷲田さんの「ちぐはぐな身体」とリンクして、差異や疎外のこと、イメージ、自己、他者、社会などなど、色々に思う。ともかく日本と同じ値段で5倍くらい見れるのだから、倹約生活してきてよかったな、と確認。

Monday, July 10, 2006

arriving on Vienna

I was arriving on Vienna this morning.
This time travelling is very hard because of using 3 flights via Taipei and Bankok.
The travel agency has not said concerning about the transit in Bankok!!
Anyway here I am and enjyoing the summer european atmospher.

Thursday, July 06, 2006

福岡は

久しぶりでしたが、いい街だなぁと思いました。何より交通機関の競争が激しく、安い。100円でバスが乗れるのだから。帰ったらもう一息色々頑張って、日曜日にkixから発ちます。

Wednesday, July 05, 2006

中央線

中学生の頃好きだった矢野顕子の「中央線」を新しいアルバム「はじめてのやのあきこ」で久しぶりに聴く。なんか不思議な感じがする。

Tuesday, July 04, 2006

歯医者に

行ってきました。6年間放置していた僕の歯は結構ぼろぼろ。明日も掃除にいってきます。そうそうparole DVDが出来上がりまして、発送準備中です。

Monday, July 03, 2006

福岡に

来ています。
京都から伊丹空港までが、1000円くらいかかって、福岡空港から祖母の家まで350円でした。この違いはすごい。

Thursday, June 29, 2006

あとは片付け

殺伐とした風景。3年弱を過ごした部屋。あっというまだった。脇目を降る間もなかった。

Wednesday, June 28, 2006

引っ越ししんどい

明日。ひっちゃかめっちゃか。

Monday, June 26, 2006

お金が届きました

初めての海外送金で不安でしたが、ちゃんと届いたそうです。所要4日程度?郵便局って偉かったんですね。

Sunday, June 25, 2006

あまり大きな声でいえませんが

3ヶ月ぶりくらいに部屋の鍵がみつかりました。日本はまだ平和です。

Thursday, June 22, 2006

parole DVD

現在作業を進めて頂いています。今日初めて途中経過を見させてもらいました。思いのほかきれいでした。楽しみです。

Wednesday, June 21, 2006

skypeIn

買いました。かけるとまず、インターネット経由でおつなぎします、と日本語のアナウンス、リング音のあと、skypeで拒否すると、英語でメッセージを残すようにとのアナウンス。30euro/12monthで、旅行中のことを考えたら、まあまあいい値段だと思う。

Tuesday, June 20, 2006

と一緒に

↓と一緒に、観光案内も入ってたんですが、同性愛者のイベントが普通にしっかり紹介されていたりして、お国柄の違いを感じたりしました。初めていったときに、道の真ん中で女性同士が熱烈にキッスをしていて、いい国だな、と思ったことを思い出します。

Monday, June 19, 2006

ImPulsTanzのパンフが

Priorityで届きました。

Sunday, June 18, 2006

夢のこと

別にもう帰ってこないというわけでもないのだけれど、さすがに最低7ヶ月日本を離れるのだから、色々感じるものはあり、夢のなかに、昨年10月くらいからの出来事や、出会った人々などが、走馬灯のように入れ替わり立ち代わり現れる。
昨日は久々に電車で寝過ごした。

Friday, June 16, 2006

つくりました

つくりました。更新しやすいので。例によってたまに更新。
写真などはカメラ持ってないのであまり入れられないと思います。

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もう少しでImpulsTanzです。振り返れば、こういうものづくりを始めたときは、自分しかいなくて、妄想するばかりで、今は周りにこんなにも支えてくれる人がいるのだと思うと、経った年月と、有り難さを思います。昨年Impulsに参加したときは自費で払ってましたし…