Monday, October 30, 2006

川ばかりの街

アムステルダムは川ばかりの街。マリファナと売春が合法の街。同性結婚も合法の街。とめてくれている友達Cは3歳年上で、ゆったりしていて、話していて気楽。彼によると、"Haji!"とはスイスではくしゃみの音(日本語ならハックション)だそう。
自転車を貸してくれてとても助かるのだけど、シートが固くてお尻が痛くなる。

Friday, October 27, 2006

Japanese Restraunt "Yamato"

といってもラーメン屋で、久々にだらしない食事をする。名物(らしい)味噌カツラーメン。といっても、味噌ラーメンにカツがのってるだけ。味噌ラーメンはしっかりした、関東っぽい味噌ラーメン。狭い店内の雰囲気も、「美味しんぼ」が並んでいる感じも、日本に帰った感じがする。ガツガツと食う様を隣の白人ビジネスマンに白々と見られるが、まあこれが本場なのだ。

Thursday, October 26, 2006

Jannete Panette Ballet Classes

I was taking the Janette Panette Ballet Classes this week. Actually, the reason to come to Brussels is taking that. In Vienna first time to see her and totally moved her classes. (I kicked Sussane Linke's reseach project for that :) What unique point is that her way aims to "in between" the pas. Most of teachers who taught me concentrated just telling "pas", means the pause not as movement, or a "final goal". But generally she tries to show "how to move it", mechanic, and "what is your individual problem", very concrete point. That makes us very clear to see. I love her, and would like to invite Kyoto, sometime....

受かった!

ポーランドのプログラム受かった!奇跡だ!24/11-2/12、warsawで、travel cost、accomodation、food、全部でます。それよりなにより、そこで新しいコネクションが出来るでしょう!クワクワ!

Wednesday, October 25, 2006

この先どうなるのかなぁ

不安になったり元気になったりあっちへこっちへ。
Wienにいったらどうなるかわからない。でも行きたい。どうしたらいいのか分からない。バスのチケットは買ってしまった。

ポーランドのプログラムのディレクターからメール。e-mailで受け取るか微妙だったけど、「Application受け取りました。これから熟慮(consider)します。ビデオのリンク先を教えて下さい。」とメールがくる。へー。一応出してみるものだ。結果は分からないけど。

ブリュッセルの街が好きだ。大好きだ。
子供たちが笑顔をたたえて走り回っている。人が人と向き合っている。トラムの中でたくさんの風景をみた。イスラム系の男の子が白人のおばさんの荷物を降ろすのを手伝っていた。イスラムのおばあさんがのってきたら、座っていた白人の若いお姉ちゃんが立ち上がって席を譲った。今日スーパーにいったら、白人のお父さんが、レジ係の黒人のおばさんに挨拶を返さなかった息子と娘をしかっていた。でもニコニコと笑顔でお父さんに話すおばさん。
当たり前の風景に思えてしまうかもしれないけど、すぐそばのParisなら、絶対に見られない風景だ。自分が自分としてここにいることにここなら何の違和感も感じずにいられる。

でも僕はWienにいきたいんだなー…

An Evening for P.A.R.T.S.

@ Kaaitheater
Anne Teresa De Keersmaeker & David Hermandez "Penture"
Mette Ingvartsen "Manual focus"
Salva Snchis "India"
Johanne Saunier "ERASE-E(X) part2"
Trisha Brown & Lance Gries "Lateral passs - passed on"
Tarek Halaby & Sue-yeon Youn "Love. Death. My life with Ting-yu. Oh wait, I am you"

Keersmaekerを生で見るのは初めて。日本舞踊なんかと同じように、ある種の重ねた年齢が生み出す力を感じる。ここ最近のRosasのどうしようもない作品群よりは楽しめた。
Trishaのレパートリー(実際には基にした作品だけど)は面白い。Offバランスの瞬間に生まれる「ゆらぎ」に志向が向かっているのを感じる。これがフォーサイスだと、OFFは、極限的な身体性の誇示に使われているだけだ。Angersで少しでも学べて本当に良かった。
友人Sを舞台で見るのも初めてで、確かにいいダンサーだなと素直に思う。ただ明らかに日本人体形で、背の高い西洋人などと並ぶと、違いが際立ってしまうことは確かで、どうやってそれを「売り」にしていくのか、というところがこれからの道のりなのだと思う。

京都の友達Mにばったり劇場で出会い、「今とても不安なのです」と話したら「これから冬で公演も減るし寒いしテンション落ちるのだから、あまり気分が良くないなら一旦帰ったら?」と言われる。そういわれると意地でも頑張りたい気持ちが(少し)芽生える。

Sunday, October 22, 2006

森下真樹 固執

Leslie Mannèsのプログラムと一緒に森下さんの作品も見ていて、落ち着いて感想など書こうと思っていたのだけど、あれやこれややることがあって、いまいち出来ないので、諦めてメモ的に書いてしまうことにします。

お茶の作法をパロディー化した作品で、茶碗をまわす代わりにペットボトルを振り回す。そんな作品。ご本人にもお話しさせて頂いたけど、ビジュアルの展開の仕方がギャク漫画。いわゆる「すんぽろぴょ〜ん」的な感じの展開。ということは、日本人の観客にはこのリズムだけでコミカルな感覚が伝わる訳である。スイス人の友人Lは「驚いた」と繰り返してばかりだったので、どうもその辺の共有部分が無いと、彼女の良さが伝わりきれないのではないかなー。 Leslie Mannèsの作品がコンセプチュアルで、それが先に上演されていたから、ついついダンスの背後へと志向が向かってしまう状況もちょっとついてなかったように思う。

ただ、リズムに身をゆだねている感じは、日本人のコンテンポラリーダンサーが未だに持っている独特な感覚であると思う。これは舞踏ダンサーの多くもそうだけど、行為が行為そのものとしてある持続性を持っている。「行為-目的」の対称関係として、断続的に出来事が身体で発生する状況があまり見られない。よくも悪くも日本人の特徴であり、再確認出来て良かった。

初日だったので、緊張されていたのか、いつかアートコンプレックスで拝見させて頂いたときのように、もっとはじけられたら、結構うけるのではないかな、とも思った。

oui oui oui!

朝、Chrisa Parkinsonのクラス(Chaleroi Danses)。床に這いつくばって相手の足下だけを見るエクササイズ、それから目をつぶって相手の運動を記憶し、再生するエクササイズが面白かった。後者は、一緒にやっていたパートナーがとてもいいことを言ってくれた。僕もそうなのだけど、対外皆触ることで「運動の絵」を記憶しようと努力するのだけど、そうすると、スピードとか、そういうリズムまで記憶出来ない。逆にリズムに集中して、ただそれだけをコピーすることだって、一つの記憶の仕方なのである。なるほど。優しくていい先生だった。
家に帰ってランチの後、いつかku:nelに紹介されていた"GIGNOL"というフレンチ・マリオネットシアターが家の側に来ていて、いそいそと見に行く。さすが日曜日で、子供いっぱい。雑誌の記事通り、終止舞台上から観客に話しかけるスタイルで、叫び続ける子供たち。"comme-ca?" "Oui!" "Non!" "Guignol!"とか、フランス語分からないのであれだけど、聞かれた質問に具体的に答えていたり。日本で言えば紙芝居なんだろーなーそうかヨーロッパにはまだこういうものがしっかり残ってるんだなーいいなーとか思う。そういえばAngersにいたとき、street performanceフェスティバルで、広場で手回しオルゴールに合わせて、観客全員が童謡を大声で歌っているのを思い出す。日本では絶対見られない雰囲気。
帰り道男の子が、興奮覚めやらず、"oui oui oui!"と絶叫しながら走っていく姿をみていると、何かを欠いてしまった自分の国をちょっと悲しく思った。

Saturday, October 21, 2006

あとそれから

昨日Kaaitheaterの方で、"Nightshade"というプログラムも見た(チケットが買えなくて、2時間も前から劇場の前で待って)。Ghentという街の"Victoria Theater Company"のプロジェクトで、8人の有名な振付家に、「ストリップ」をテーマに作品を作ってもらうという企画。Vera Monteroのピース初見。funny、でもこれってピナがやってたイメージそのまま(女性が体中に風船を付けて笑ったり話したりしながら割っていったりする)じゃない?パロディーもコンセプトに入ってるのかしら?あとCaerina Sagnaという振付家の作品が印象に残った。指揮者が突然立ち上がって客席に歩いていき、吟味するように立ち止まってから、一人の女性を舞台へ招き入れる。そして何か耳元に吹き込む。「素人?仕込み?」なんか曖昧なまま彼女は舞台に在って、しかもその前はかなりコテコテのストリップだったから、彼女が脱ぐのかしら?よくわからない。舞台上をドギマギしているうちに、轟音の様な音楽がなり始め、まるで何かを強制されている様な雰囲気で、彼女が困惑した表情を始める。突然幕が彼女の両脇から迫ってくる。さらに頭上からも。大きな悲鳴を上げて倒れ込む。そのあとは、下半身だけが客席に見えている状態で、普通に脱ぎだして、この時点で仕込みと分かる。何かこう言う、微妙な感覚って、寺山修司っぽいというか、でもこれだけ丁寧に作り込まれてると、興味深い時間だった。

Leslie Mannès "Delusive Figures"/Leslie Mannès&Manon Santkin "Byproduct 3"

Leslie Mannès "Delusive Figures"/Leslie Mannès&Manon Santkin "Byproduct 3"
at Kaaistudio 19/10/2006

Lesile MannesはPARTS、SEADを出た若手の振付家で、いわばコンテンポラリーダンスにおける王道的な経歴を持ったヨーロッパによくいるタイプの一人である。キュレーターが上演前のイントロダクション(途中で飽きて退席したけれども)通り、新しい世代の一人であり、ヨーロッパの同世代たちの傾向と方向性は重なる-ヴィジュアルアートとの接近である。身体、またそこにあるあらゆるオブジェを、コンセプトへとつなげていく。
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この作品は、徹底的に身体その物理性を全面的に押し出していた。そこにあるのは運動し、志向する「肉の塊」なのである。冒頭及び何度も繰り替えされる、かがめた背中だけを平面的に示すシーン。細長い手を使って平行移動する様は、奇怪なモンスターのようであり、つまり興味深い「絵」を提供する1つのオベジェクトである。
あるいは、1人のダンサーの体を2人のダンサーたちがつまみ上げたりひねったりする様も、あからさまに「肉」であることを示そうとしている。持ち上げられ、引き延ばされた乳房は、絶対的に性的なイメージから遠ざけられようとしている。あるいは、顔面の筋肉を動かされ、本人の意思と無関係な表情を作らされる様は、過疎的なオブジェクトとしての「肉」である。
プログラムに書いてある「作品のテーマ」の通り、こうした身体性は現代人の身体、また身体への向かい合い方を良く暗示している。鷲田清一さんが「悲鳴を上げる身体」で用いている言葉を借りれば、「観念でガチガチになった身体」である。身体が抽象的な物質、肉として捉えられる感覚は、西洋医術、死体の解剖によって始まり、作り上げられた思考のそれである。都市のシステムの中に生きる私たちは、もう容易にこうした肉に還元される前の身体へ戻ることが出来なくなっている。いわば地に足がついておらずふわふわと絶えず浮かんでいる様なもので、こうした思考は大変脆い。
ではこの作品は、そんな現代人の弱さを提示するだけの悲劇なのか。いや、彼等はとてもキレイに小さな希望も指し示すことを忘れなかった。棒立ちになったダンサー。別の1人のダンサーが紙箱(中にまた別のダンサーが入っている)から投げ渡された服を次々にテープで貼付けていく。モード、着せ替え人形の様なオブジェクト性の提示である。しかし、ニット、スカート、ハイヒール、サングラスを棒立ちのダンサーに貼付けていたダンサーは、次に全く同じものを今度は自らに身につける。そして、スタスタとハケ口へ歩いていく。着せ替え人形の様な、同じ肉が、しかし「動的」であるということ-どのような状態・状況(観念でガチガチになっていたとしても)に会っても、確かに「生きている」ことを歩き出すその身体は示しているのである。生きていること、動的であるということは、膨大な可能性を私たちが常に持っているということだ。
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秀逸な作品であり、これからの作品もとても興味深いものだが、しかし同時に、考えさせられるものもあった。劇場のロビーで展開された彼女のもう一つの作品が分かり易いのだが、ダンサーたちの身体は常に何らかの目的と対称関係にある。インスタレーションとしてのこの作品で、彼女たちは中央に置かれた台に、幾つかの写真を配置し、そして入れ替わり立ち替わり次々に並び方を変えていく。その配列が、様々なメッセージ性を浮かび上がらせる、おそらくそれがこの作品のコンセプトである。僕が気になっているのは、この写真を運んでいくそのときのダンサーたちの身体である。「運ぶ、並べる」と行った目的に対して、彼女たちは忠実で、スキが無い(ムダな動作を極力排除しようとしている)。ゆるみがないのである。劇場で行われた前述のパフォーマンスにおいても同じ様にダンサー達の身体は、まっすぐにその目的へと向かっていた。
 これはMeg Stuartの「SAND TABLE」を見たときにも感じたことだが、近年のヨーロッパ人アーティストの作品におけるダンサーの身体性の一つの傾向であるように思う。何を言いたいのかと言えば、こうした思考は、とても狭量的であると思うのだ。持続する時間のただ中にある(或は持続する時間そのものである)身体は、可能性の海を常に漂っている。身体にゆるみがある時、私たちはそこに、そうした可能性への開きを感じることができる。様々な事象が身体に飛び込んでくる様を見ることができるのだ。それこそが、「作品」や「芸術」と行った制度を超えた彼方へ向かう道を与えてくれるように僕は思っている。

皆大変だな

さすがに3ヶ月を超えれば、英語にも大分慣れてくる訳で、そうすると逆に友達の話のディーテイルも理解してくる。ああつまりは、皆大変だな、としみじみ思う。僕らは、まるで皆、プロフェッショナルとして仕事を始めようとしているか、まさに今始めた様な、そういう微妙な位置にいて、それはここから右にも左にも振れる。
人生はまだまだ分からない。でも友達と話せることが、本当に幸いだと思う。

Friday, October 20, 2006

フレイ・ファウストのクラス

2度目のブリュッセルは、友達のおかげで楽しい。家の周りが凄くきれいで、歩くだけで愉快。それに、前回来たときの記憶が会って、ある程度慣れがあるので、割と気楽に動き回れるのもあると思う。パリよりずっと心地いい。東京の街に近い印象。

昨日今日とフレイ・ファウストのクラスをとった。昨日はシークエンス、これも面白かったけど、今日のエクササイズはとても興味深かった。4拍子を使い、1、2で移動し、3で、身体の1ポイントを持ち上げる。4は呼吸としてのポーズ(別に多少動いても構わない)。これをまずは一人でやる。次に、このポイントを、パートナーが触れる。「ともに動くこと」をこの時点で彼は強調していた。そして次に、ポイントに体重を預けてみる(実際はジャンプして飛び乗る)形に発展。
ニタに習った、相手のアンカーを感じるという志向方法を実践するための、非常にシンプルで、安全なエクササイズ!!どうやって相手の身体に入るか、相手の身体を受け止めるか。瞬間に感じ、考えていく。相手の状態(支え、位置)を想像しながら(imagine!)。

Wednesday, October 18, 2006

寝れないので考えていたこと

リスボンの友達の友達の家にきたけど寝れないのでぼんやり考えていたこと。

友達Gが友達Vと電話で話しているのを聞いていたら、「世界の男性ダンサーのどれだけがストレートか。」みたいな話題が出てて、確かにトランスジェンダーの割合が多いことを思う。

ということは、ストレートの僕が、場によっては「少数者」としてそこにいることも考えられる訳だ。

日本では「少数者としての」トランスジェンダー問題だけが力を持っているけれども、上の様な状況になれば物事は全て反転する。折り返し地点をどこにするかでも変わってくるけど、例えばそこでトランスジェンダーについて考え続けたいならば「少数者としての」という「」でくるまれたすべてを削除してトランスジェンダー(言い方は変わる可能性があるけれども)を考えなければならない。あるいは、「少数者としての」にこだわるならば、そこではストレートについて考えることになる訳である。

ぐるぐる。そして寝れない。今日ブリュッセルへ。

Sunday, October 15, 2006

farewell porto

i left porto today. now staying my friend's home town. leaving from lisboa to brusells on wednesday. farewell porto, my lovely warm city. cheers.

Friday, October 13, 2006

終ったと思ったら

今度は来年にむけて日本語で文章を書かなくてはならない訳で、デスクワークやっぱり嫌い。

Thursday, October 12, 2006

my longest english essay

i wrote down the essay for application of one project.
this is my logest english essay until now.:)
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Question for the "visual". In your "xxxx" program, where various artists are gathering from Europe and Asia, I would like to challenge about this theme with other participants. Needless to say, we can't imagine contemporary dance without the visual. The spectators come to the theater to see dancers' movement(and/or something related it) mainly. Though if there is a beautiful ceiling picture in the historical theater, no one just observe it while the performance.

I have learned the importance of the visual in the contemporary dance through various opportunities. For example, on 2001 when I participated in a research project of Philippe Decoufle, one of represented French choreographers, he taught me that the strong image, which can offer the stimulation, freshness and involvement of imagination to the spectators, makes the performance very interesting, and to find out that we must not forget the effort every time in our creation. Also in the classes of the University, I learned that trying to have a feedback in visual for my own dancing and choreography such as using a mirror and video camera, is certain good way to raise the quality of them.

However, simultaneously, I have had interest in the dancers' sensitive sense which can not be appeared easily in visual, according to attending some workshops of various artists. Saburo Teshigawara's own method, noticed me that our body can receive our aim and move flexibly even if we are extremely tired. Studying contact improvisation, with Kosei Sakamoto, Andrew de Harwood, Nita Little and so on, I discovered my body can feel the extensity among people and what happens there. In the ballet class by Misako Terada and Janette Panette, I was aware of my habit to use too much power to move unconsciously and learned how to release it. Of course, originally these workshops aim to refine the movements as visual. But it is sure that they also offer the way to notice the sensitive sense of our body which we hardly experience in our daily life.

In addition, I also have studied about the Phenomenology. Especially I was affected by Merleau-Ponty's thought and that let us know that, as describing the state of things carefully, we can understand the detail of our situation(relationship with social, politics, system of knowledges and so on) and our aim more. And I noticed that this approach in describing of Phenomenology is close to the approach in dancers' sensitive sense which I learned in some workshops. A common point among them is strongly adhesive persistence for 'the moment.' What happens right now, here? In other words, if we can find out a way to make dancers' sensitive sense open up as in intelligent possibilities, using it not only for getting refined movements, we can clarify the relationships between us and the various knowledge systems or intelligent thinking movements such as social, politics, ethic and so on.

Reflecting that idea, my latest piece "parole" aimed to reveal the minute movements in our communication to see how people are confronting to the others. In the choreography, we use the technique of contact improvisation mainly, but we did not decide the detail before the performance. In accordance with that, the dancers have to see and guess how do they move together and accept each other carefully. Then spectators can find attention and caring of them in between this process, and that proposes the approach to the ethic. (Hajime tried to plan to adjust the relationships between 'creation community and spectators' to understand each other as the others, as the public area. Tohru Inekura, Engekijin 22nd)

I have visited European countries 3 times since last year. Especially this year, I took part in danceWEB intensive study program(Austria, Wien), and that offered me the opportunities to touch with the real European dance scene, seeing a lot of performances, taking so many workshops and directly exchanging opinions with the artists in person. In accordance with this experiences, many artists of today are creating his/her work having the question for the visual in the similar way as me. Jerome Bel explained that he started from the question for a 'spectacle' in his "Pichet Kunchen and Myself", which was very symbolically for me.

I think this question is from that most of contemporary dance in 90's concentrated to make 'spectacle', but they could not propose the idea of solution for the miserable politic problem such as 9.11 and Iraqi War. Or, as we know, the same of spectacle in the media, explaining looks/sounds obviously, encouraged US nations to sustain to start the war. We are not already living in the optimistic world, being not satisfied with just delighting spectators.

The place is where the next generation gathering, your "xxxx" program. Participants would share that theme there, I think. So I would like to propose my idea, dancers' sensitive sense can be connected various knowledge system or thinking movement, and would like to join the process of seeking a new way of contemporary dance. Meeting people who have various back ground, exchange the numerous opinions and ideas, try and experiment together. I am expected to be pleasure there.

Thank you very much for your consideration.

Hajime Fujita

Monday, October 09, 2006

はー大変

例によって締め切り間際のapplication+motivation letter執筆。もーいつもこればっか。受かるか受からないか分からないものにこれだけ労力をかけなきゃいけないって(仕事なんだから当たり前ですが)、はー。
書き損ねていたけども、日本人ほど海外に出てきても自分の国のことを忘れられない国民はいないと思う。どこにだって日本車が走ってて、日本の電気製品が使われてて、しまいには皆寿司作って食ってるし。

Sunday, October 08, 2006

メグスチュワートを見に行った

下でも書きましたが、メグスチュワート初見。20分ほどの短い作品でしたが、いかにもヨーロッパらしいきれいな作品。面白かった。でもやっぱり、こうした傾向をどう変化させて、身体が語る可能性を提示出来るのか、自分の手法について今一度考えた。劇場のそばの建物のカフェやら洋服屋三らがまとまって入っているところが凄く良かった。久々にリラックスしてコーヒーが飲めた。
http://www.teatroaveirense.pt/
昨日はコンテンポラリーダンスミュージアムへ。Gegoというドイツ人モダンアーティストの展覧会を。抽象的な線が作り出す論理空間のメタファーと、同時に同じ線が浮かび上がらせる、論理空間からのダイナミックな超越。この手の作品は好き。

first time to see Meg Stuwart's work

I went to Aveiro to see Meg Stuwart's work, "Sand Table". This is first time to touch with her performance and really interesting. But it also reminded me the question about the spectacle, "how does the visual work in Contemporary Dance in important?" In the performance, two dancers were just manupulating sands, I could not get what 'their body' spoke to spectators.

Thursday, October 05, 2006

shooting video

started shooting the video. today we made short video, i spoke some portugess sentences without knowing the meaning, gui spoke some japanese like same. afeter filming, put the meaning on subtitle in english. there is the difference between attitude and meaning. this is a good way to be aware some aspects of languge.

Wednesday, October 04, 2006

better and better

After the performance, I got fucki'n sick again.
But I feel better and better slowly.
Hopefully tomorrow start again the research.

Monday, October 02, 2006

Sweet and Tender Collaboration #2

Sweet and Tendr Collaboration#2 "Plus Three" photos







every photos by Daniel, thank you!!

親子丼をつくる

僕らがperformanceをしたクラブのオーナーは本当にいい人で、大柄な体形からも、とても応援してくださっている東京のSさんなどを思い出させる。「またPortoへきて、ここで何かがしたいです」というと、「使いなさい。(Use it!)」と言われる。
そんな彼が今日は僕らの家にくるというので、韓国人の友達は寿司を、僕は親子丼をつくって、日本食ディナーにした。(寿司はフェイクだけど、べつにそれでおいしいので不満なし)親子丼は簡単だし、材料を手に入れるのに困らないので、フランスでもつくったけど、普通に食べてもらえるので助かる。rice sauceと説明するのが手っ取り早い。
で、どうして彼がわざわざ来るのか、まあ親睦を図りにかなーとか思ったのだけど、こんな深夜まで友達たちとあーだこーだ言い続けている姿を見る限り、様は仕事を抜け出して一息つきたかったのかもしれない。そうして若い人たちのところにすんなり混ざっていく姿がまたかっこいい。
不眠が続いていて、昨日からとうに36時間以上は寝てない。頭痛がひどい。こういうときに限って日曜日で、薬が手に入らないのだから、本当についてないものだ。頭痛薬を細々と投入するけど、内蔵に絶対負担係ってくるので、心配。

Sunday, October 01, 2006

いけない、疲れている

例によって調子を崩す。不眠と頭痛。うーん。一生僕はこれとつきあわざるおえないんだろうなぁ。
ぼんやりしてたらやること山積み。頑張ろう。友達が皆頑張っているように。僕なりに、精一杯。