Sunday, December 24, 2006

メルロ・ポンティ「哲学をたたえて」

去年か一昨年に「眼と精神」を古本屋で1500円で買って、「人間の科学と現象学」は読み終えて、今年に入ってから「哲学をたたえて」を。例によって爆裂遅い。半ばくらいまで読んだ。面白いところ自分のために抜き書き。

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p.199
 哲学者が哲学者として認められるのは、<明証性>にたいする眼と、<両義性>にたいする感覚とを不可分に合わせ持つことによってです。最も、彼が両義性を受動的に受け取るだけであれば、その両義性は<あいまい>と呼ばれます。しかし、最も偉大な人たちにあっては、両義性は主題となるのであり、確実性を脅かすどころか、その確率に寄与します。…つまり、彼らはこの絶対知ではなく、我々のうちにおける絶対知の生成について教えてきたのであり、またキルケゴールが言っておりますように、絶対者ではなく、せいぜいのところ、絶対者に対するわれわれの関係の絶対性について教えてきたのです。哲学者をして哲学者たらしめるゆえんのもの、それは、絶えず知から無知へ、無知から知へと送り返す運動であり、またこの運動の中での一種の静止です。

p.212
全ての哲学者や画家が、他人によって自分の作品と呼ばれるものを、常にこれから完成されようとしている作品の下絵にすぎないと考えるものだということは、全く本当のことです。けれどもそのことは、完成した作品が彼らの手前のどこかに実在しているということを証明するわけでもなければ、またその作品に達するには覆いをとりさえすればよいということを証明するわけでもありません。
 …すなわち、ある哲学の秘密と核心は、その誕生以前のインスピレーションの中にあるのではない。作品が進行するにつれて核心自身も移動するのであって、作品とは、おのれ自身と合致したり対立しながらおのれを構成していく<生成する意味>なのだ。従って哲学も、必然的に(哲学的)歴史となる、つまり部分的解答が出てくるたびに当初の問題も変形していくような<問題と解答の取引>となるのである。

p.222
 ところで、われわれが<表現>と呼んでいるものは、ベルグソンが絶えずそこに帰ろうとした現象、つまり<真なるものの遡行的効果>であるような現象を別なふうに言い表したものにすぎません。…<考える>ということ、言い換えればある観念を真であると考えるということは、過去についていわば一種の奪還権を主張するということ、或は過去を現在の先取として扱うということ、少なくとも過去と現在とを同一世界に位置させるということを意味します。私が感覚的世界について述べている内容は、感覚的世界の<中に>あるわけではないが、しかし感覚的世界が言わんとしていることを言い表すという以外の意味を持つものでもありません。つまり<表現>というものは、おのれの日付を過去に遡らせ、あたかも<存在>がその表現に向かって進んでいたかのように仮定するところに成り立つのです。

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「この運動の中での一種の静止です。」とか、凄い日本語としてきれいで、訳者の滝浦さんがどれだけ苦労されたろうかと思う。

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