Sunday, June 29, 2008

2年間という時間

明日からは再びMontemor-o-Novo。3週間学校のプログラムでMiguel Pereiraとともにリサーチとプレゼンテーションを行う。
ここのところ連日30度を超す夏日で、夜は下着にタオルケットで寝ている(といっても夜の気温はかなり低くなるので、窓は閉めたまま)。

正直いって、疲れている。おそらく5月、6月からいろいろたて込んだこともあるのだろうけれど、というよりはもっと長期的に、ずっと不安定な生活が何年も続いてきたことに由来するようなきがする。
鬱もそうだが、「揺り戻し」というものがある。ちょっとよくなってきたな、と思ったら、また突然悪くなったりする。それを繰り返しながら、少しずついい方向へ向かっていく。だから、この「揺り戻し」も過程の一部として見なさければならない。あわててはいけない。

先日、学校のダイレクターが来年の話をちょろっとつぶやいた。バタバタしていると忘れてしまう。なんと僕は来年もここにいられるのだ。走り続け、息切れしそうになった二年間と、ひと呼吸をおくこの二年間。そんな風にうまくバランスがとれてくれたらと思う。たくさんの迷惑をかけているが、しかしこの機会を本当に有意義に、つまりはよく休んで、英気を養って、そして冷静に、自分の未来へ投資する時間にしたい。

ポルトガルは、そのために最適な場所だ。この土地と、人々と、文化が、暖かい。ありがとう。



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ポルトガル語の基本的文法がよくまとめられたウェブサイトがあった(英文)。たすかる。

Learning Portuguese

Friday, June 27, 2008

Hard Times Come Again No More


by Nanci Griffith

This is a american folk song, also sang by Japanese pop singer Akiko Yano.
One of my favorite songs by Yano.

Here is the lyrics:
Let us pause in life's pleasures and count its many tears,
While we all sup sorrow with the poor;
There's a song that will linger forever in our ears;
Oh Hard times come again no more.
There's a song, the sigh of the weary,
Hard Times, hard times, come again no more
Many days you have lingered around my cabin door;
Oh hard times come again no more.
While we seek mirth and beauty and music light and gay,
There are frail forms fainting at the door;
Though their voices are silent, their pleading looks will say
Oh hard times come again no more.
There's a pale drooping maiden who toils her life away,
With a worn heart whose better days are o'er:
Though her voice would be merry, 'tis sighing all the day,
Oh hard times come again no more.
Tis a sigh that is wafted across the troubled wave,
Tis a wail that is heard upon the shore
Tis a dirge that is murmured around the lowly grave
Oh hard times come again no more.

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by Stephen Foster


by Bob Dylan

腰椎椎間板ヘルニアのオランダ人を助ける(訳しただけだけど)

旅行者のメーリングリストに入っていて、まあ殆どまともに読んでないんだけど、なんと日本を旅行中にヘルニアになって緊急帰国したっていうオランダ人が、日本のドクターが書いた書類が意味不明で困っているとポストが入っていた。急いで連絡をとって翻訳して送ってあげたらたいそう喜ばれた。というか、おそらく頑張って仕事してお金ためて、休暇もつくって、ようやく日本にいけたというのにヘルニアって…どんだけついてないんだろう。
あと、おかげで学校の課題が間に合わなかった ;)

Tuesday, June 24, 2008

煮る、焼く…

メールマガジンのポルトガル講座が届いていた。
今回の語彙、これは便利!!

1. 焼く   assar
2. 煮る   cozer
3. 炒める   frigir
4. 揚げる   fritar
5. 蒸す   cozer ( banho maria )
6. 温める   aquecer
7. 沸騰させる   ferver
8. 冷やす   esfriar
9. 混ぜる   meser, misturar
10.茹でる   cozer

Sunday, June 22, 2008

New Video: f/f in Maus Hábitos(Porto, Portugal)

I uploaded the video of my work, "f/f", last month in Maus Hábitos(Porto Portugal). It was on 9th May 2008.

duration of the video: 10:18


About "f/f":
   f/f is improvisaton dance project, which is core of all of Hajime Fujita’s dance works, and has been presented in several places (Reims, Motemor-o-Novo, Osaka, Kyoto and Yokohama) since 2001. The original theme is showing the existance of himself, not only showing “dance” or “performance”. To do that, he trys to be honest and to show everything what he feels/thinks/reminds.... on the each moment. So sometime he losts, he hesitates, even sometime he starts to speak

   Recently, this piece is also involved by presenting in the alternative places. Especially, in the Festival Ananil in Motemor-o-Novo, Portugal, Fujita represented this piece on the path of country side besides old house, collaborating with Spanish musician, Andreu Jacob, was quite appreciated. All of the nature surrounding him affects his sence, and make the movements diverse and flexible. Also in the French momument, Palais du Tau, he danced in the outside place.

read more and watch other videos (on Hajime Fujita official web site)

Tuesday, June 17, 2008

danceWEBはやっぱり最後の青春だったんだな…

今週はLoïc Touzeが講師で、今年度の仕上げであるソロワークのためのイニシャル・ワークといったところ。
彼とは2006年のdanceWEB以来…。とにかく再び会えたことが本当に嬉しい。

それにともなって、ついついいろんなことを思い出す。
danceWEBに参加したときは確か24才。参加しているそのときから、「ああ、これがきっと僕の最後の青春になるんだろうなぁ」と感じ、だからこそバカなこと・無茶をたくさんやったけど、今更にそれを確認する。しみじみ。

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ご飯の炊き方をほぼマスターしたので(ただし我が家のキッチン限定)、ここのところそればっかつくっている。慣れると手間がかからずすごい簡単、かつバリエーションがいくらでもできる。
1.材料を適当な大きさにカット。野菜、肉、魚、豆、なんでも、すきなもの、適当に。
2.鍋に米と1、塩少々を入れる。
3.米:水=1:1.3ぐらいの量で水を入れる(米以外が多ければ少し多めに)。
4.ふたをして、強火で加熱。
5.沸騰してきたら、トロ火にする。
6.待つ。水が沸騰しているのが見えなくなって、しばらくしたら、芯がなくなっているかみる。9割以上なくなっていれば大丈夫。
7.火を消し、鍋の上にタオルをかけて、10分ほど蒸す。できあがり。

Sunday, June 15, 2008

Coming back from Ananil

just coming back from Ananil. 2 performance + 1 workshop(my first workshop!!) in 3 days, pretty busy, but really great people and familiar beautiful festival. Now time to back to the reality again, and rest somewhat... zzz...





Wednesday, June 11, 2008

内田樹の研究室: 記号的な殺人と喪の儀礼について

今回の秋葉原の事件について僕(藤田一)としては今ひとつピンとこないところがある。
やはり離れてくらしていると、いくら母国のことといえあまり実感がない。
とはいえ、その在り方はまさに僕がそこにいたとき感じていた日本の人々のちょっと「おかしな」傾向に対する違和感を再確認させるものだった。ちょうど内田先生が分かりやすく書いて下さっている。

内田樹の研究室: 記号的な殺人と喪の儀礼について

ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること。
これは事実レベルの問題ではなく、物語レベルの問題である。
そして、この「ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること」は私たちの社会では「政治的に正しいこと」として、このような事件についてコメントしている当の社会学者や心理学者たちによって、現につよく推奨されているのである。
「ハラスメント」にはさまざまなヴァリエーションがあるが、私たちがいま採用している原理は、あるシグナルをどう解釈するかは解釈する側の権限に属しており、「加害者」側の「私はそんなつもりで言ったんじゃない」というエクスキュースは退けられるということである。
「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。
「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。
これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。
その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。
たしかにそのような記号操作をしていれば、世界はたいへんシンプルになる。
私たちはメッセージを適切に解読するために、実際にはたいへん面倒な手続きを踏んでいる。
言葉が語られたときの口調や表情、身ぶりといった非言語的シグナル、前後のやりとりとのつながり、どういう場面でどういう立場からの発言であるかという「文脈」の発見、発言者のこれまでの言動の総体の中に位置づけてその暗黙の含意や事実認知上の信頼性、遂行的な確実性を査定すること・・・そういった一連の作業を経てはじめて、無限の解釈可能性のうちから、とりあえずもっとも適切と思われる解釈にたどりつくことができる。
これは面倒な仕事である。
特に、「おそらく『こんなこと』をいおうとしているのであろう」という暫定的な解釈に落ち着きかけたところで、その解釈になじまないようなシグナルに気づいて、自分がいったん採用した解釈を捨てて、もう一度はじめから解釈を立て直す、というのは心理的にはたいへんむずかしい。
この面倒な仕事をしないですませたいという人がふえている。
ふえているどころか、私たちの社会は、今ほとんど「そんな人」ばかりになりつつある。
目に付くすべてのシグナルを、「ひとつのできあいの物語」を流し込んでしまえば、メッセージをそのつど「適切に解釈する」という知的負荷はなくなる。
メディアで「正論」を語っている人々の中に「話の途中で、自分の解釈になじまないシグナルに気づいて、最初の解釈を放棄する」人を私は見たことがない。
この二十年ひとりも見たことがない。
これはほとんど恐怖すべきことであると私は思う。
知的負荷の回避が全国民的に「知的マナー」として定着しているのである。

Tuesday, June 10, 2008

"f/f" on 13th/15th June in Montemor-o-Novo

I would represent my improvisation piece called "f/f" in the festival Ananil in Motemor-o-Novo(eastern Portugal). This is 2nd time to show this piece in the same festival since last year. Please visit and enjoy the great summer atmosphere surrounded beautiful Portuguese country side :) :) :)

"f/f"
   f/f is improvisaton dance project, which is core of all of Hajime Fujita’s dance works, and has been presented in several places (Reims, Motemor-o-Novo, Osaka, Kyoto and Yokohama) since 2001. The original theme is showing the existance of himself, not only showing “dance” or “performance”. To do that, he trys to be honest and to show everything what he feels/thinks/reminds.... on the each moment. So sometime he losts, he hesitates, even sometime he starts to speak

   Recently, this piece is also involved by presenting in the alternative places. Especially, in the Festival Ananil in Motemor-o-Novo, Portugal, Fujita represented this piece on the path of country side besides old house, collaborating with Spanish musician, Andreu Jacob, was quite appreciated. All of the nature surrounding him affects his sence, and make the movements diverse and flexible. Also in the French momument, Palais du Tau, he danced in the outside place.


=videos from last year in Ananil (collaboration with Andreu Jacob)=

Saturday, June 07, 2008

Miguel Pereira "DOO"

部屋の外からまだうるさい音楽が聞こえる。今日はEuro 2008でポルトガル戦があって、どうやら勝ったらしい。

Alkantara Festival、今日Miguel Pereiraの"DOO"をCCBで鑑賞、これで僕は買ったチケット分全部みた。
他は、Berlin "Bonanza", Parts "New Works", Jonathan Burrows+Matheo Fargion "Speaking Dance"、Vera Montero "até que deus é destruído pelo extremo exercício da beleza"。雑感としては、Jonathan Burrowsはやっぱり面白かったけど(でも2006年の"Both Sitting Duet"の方がスッキリしていてよかった)、ほかは正直どうでもよかった。Partsは、友人二人のデュオはよかったけど、ほかの学生の作品があまりにも素人すぎて、翌日別のプログラムにいく気力がなくなってしまった(劇場が郊外にあるのと、公演が21時から3時間もあるというのも手伝った。昨年の卒業公演の作品は結構面白かったのに。)。Vera Monteroはいい作品だったけど、もう一つピンとこなかった。彼女の作品はともすると作り込みすぎるきらいがあるが、この作品もちょっと磨きすぎた感があった(お客さんの半分が帰ったというフランスでのプレミアを見たかった)。

で、Miguel Pereira。ほっとした。ちゃんとしたアーティストの作品だった。おそらく短期間のレジデンシーによるものだとはいえ、よく練られていた。

クレジット:
project by miguel pereira | in collaboration with ana pais, bernardo fernando (pak), nuno coelho, rui catalão, sérgio cruz, thomas walgrave, jari marjamaki | production o rumo do fumo | co-production alkantara, théâtre national de bordeaux en aquitaine | artistic residence and support centa (vila velha de ródão), culturarte (maputo), capa/devir (faro) | support balleteatro (porto), associação binaural, atelier re.al, centro cultural franco-moçambicano, rádio oxigénio, instituto camões| o rumo do fumo is supported by ministério da cultura/ direcção-geral das artes | project co-produced by next step, with the support of the culture program of the european union

以下は、学校で後日レポートを書かねばならないので覚え書き。

作品の流れ:
舞台、全体的にブラックボックス。スモークが舞台上にたかれていて、煙たい。CCB小アトリエ。舞台後方に木目の色そのままの長スツールがおかれている。中央にテーブル、ミュージシャンがパソコンほか機材をそこにおいてオペレーション。テープルの前には小さいスピーカー(モニター用?)、電源ドラムなどがおかれている。舞台上手側、スツールのすぐ脇には黒い扇風機。

開演、Miguel(以下M)、Bernardo(以下B)、Jari(ミュージシャン、以下J)上手より現れ、それれ上手、中央、下手に腰掛ける。MはすぐにLPレコードプレーヤーを舞台中央手前におき、自信はしゃがみこんでそのすぐ後ろに。クラシックミュージックながれる(曲目判別できなかった。)。スポットが、客席の中央あたりからと、かなり後方よりレコード番に投影され、Mの顔にレコード版の反射がゆらめいている。レコードは、始め通常に流されているが、途中からMが針を動かし何度か場所を変える。最後は短いフレーズが自動で繰り返される。

レコードプレーヤーを片付ける。その電源コードを扇風機に付け替える。扇風機動く。首をふりながら。扇風機は、舞台下手方向斜め後ろにむいていて、Mがスツールにすわるとちょうど彼にあたる角度になっている。

M、座っていた位置から真っ正面、つまり舞台上手側に立ちナレーションを始める。モザンピーク、アフリカ、彼の生誕の地。30年と足を踏み入れていなかった彼のふるさとに訪ねたこと。モザンピークはポルトガル・コロニーであったことの確認(一言で)。彼の思い出話。コカコーラを始めてみて、それはポルトガルもそのころ独裁政権化でみることが不可能であったからとても驚いたので、両親に「コカコーラだよ!!」といい、それから「コカコーラ」と呼ばれるようになったこと。そしてモザンピーグの伝統舞踊「Txava Txava (チャバチャバ)」という歌と踊りを学校で練習し発表したこと。歌と、チャバチャバの意味をとうとうと説明(しまった、詳細忘れた:P)。

するとおもむろにBたちあがり、舞台下手がわ、Mと同じライン上にたち、Mにチャバチャバの意味はそうじゃないと簡潔に、キッパリと反論する(たしか女でドラムの中に入るとか何とか)。二人、おもむろに後ろ向きで腰を左右に降り始める。スタンプも始める。ふたりで踊る/歌うチャバチャバ。腰を振り、スタンプをふみ、指差しながら左に回り、右に回り。しばらくして、Bを残しMはスツールにもどって腰掛ける。荒い呼吸。「Bにあって、45になったら自分がかつてのようにチャバチャバがおどれないと分かった」

(このへん少しうろ覚え)
二人で踊ること、Bが踊りながらMがナレーション。これを何度か繰り返す。途中、MはBと会って彼の過去のピースを思い出したといい、そのピースと思われる振り付けを二人で踊る。そのときMはかつら(アフロ)とハイヒール(ともにそのピースで使ったのだと説明する)を身につけて。Bがサイドステップを繰り返しているときに、M「モザンピークで、かつて自分たち家族が暮らしていた家に訪ねた。家はまだそこにあった。住んでいる人に、ぜひ中を見せてほしい、私にとって大切なことなんだと訴えるが、彼らは上司に尋ねないとわからないという。再び訪れ、その上司と話すが、彼は私を招く準備をしていなかった、また連絡するから、という。しかし連絡はこなかった。」

Bが靴をぬぎ、靴下を脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンをまくり上げる。Mはかつらとハイヒールを舞台中央手前におく。かつらが上手側、ハイヒールが下手側で両者の間にはやや間隔がある。上半身裸になったはそこに近づき、しゃがみこんでかつらをみにつける。ハイヒールを両手でそれぞれにつかみ、トウの部分を握って、かかとの部分でリズムをたてる。アフリカドラムの律動。次第にはげしく。J、サンプリングしていたのか、Bのリズムと時にシンクロするようにドラム音がスピーカーより。どんどん両者の音が激しくなり、照明が暗くなっていく。代わりに舞台再度床からのライト(しばしばフロントライトに利用される小さな灯体が並列に並んだもの)があがっていき、Bはかつらとハイヒールをぬいで、Mがおいた元の位置に。舞台下手側にうつり、Bは次第に激しく踊り始める。Jの音も電子音がまじり、オリジナルのドラム音がどんどん遠くなりながら、激しさを増していく。照明は今度は全体に暗くなり始め、Bの影がはげしく躍動するのをみせる(このへん冗長だった)。舞台シーリングの蛍光灯が何度かパチパチと瞬き、暗転になっていく。クロスフェードして、後方のスツールにスポット。音は少し残っているが、Bは腰掛ける。J、ゆっくりと音楽をフェードアウト。M、立ち上がり、扇風機のコンセントをぬく(つまりこれまでずっと動いていた)。ファンが止まるまで動かない。静寂。3人立ち上がり、舞台上手へ消える。終演。

考察:
パフォーミングアートにおける現象学的可能性について意識的、戦略的である。
あらゆる情報は断片として提供され、それは作品内において対象化されない。すべては点として出現し、観客はその向こうへ誘われる。

当然ながら、断片はそれ自体として観客をその向こうに誘導しない。この作品では二つの事象を対比させ、その間を線として結ぶことを挑発することで、観客の思考を現象面の向こう側へと展開させる。

舞台美術そのものが、シンメトリーであり、左、右、中央と幾何学的に分割され、対比関係を想起させる。しかしここで秀逸なのは、中央のテーブルは厳密には中央ではなく、大体中央、であり、その前に置かれたモニター用と思われるスピーカーも下手側によっているなど、全体としてのシンメトリーを微細に崩している。上手側にも扇風機が置かれ、下手側とは完全に同一ではない。この崩しが、観客を強迫せず、リラックスさせる。中央にミュージシャンを配置することも、音楽を操作するという行為を見せることで、彼を観客の側の存在(オブジェクトとしての存在ではない)と見立て、架空の舞台であるという構造をあらわにし、了解させることで、観客に安心感を与えている。この崩しが、緊張感を与えずに、観客の視線における、対立という関係性の想起をゆるやかに助けている。

対立軸として何よりも考えさせられるのは、言うまでもなく、ヨーロッパ人とアフリカ人、ないし白人と黒人。これには当然植民地主義とポルトガル/モザンピークにおけるその歴史的事実を介在させる。白人であるMがアーティストとしてダンサーであるBに指示を与えている。Mが彼の個人的な経験を吐露し続けるのに、Bが冒頭をのぞいて無言であり続けることがそれを明示・強調する。また、Bが着ている服はヨーロッパ人の服である。しかし、Mが踊るその真後ろでBは淡々と同じステップを踏みながら、Mを超えて、虎視眈々とした眼差しで観客の方を向いている。先進国としてのヨーロッパ、開発途上国としてのアフリカ、しかしその構造がいつまでも続くとは限らない。
Mはモザンピークに行き、かつての家を尋ねたが、まるで断られてしまった。語られてはいないが、そこに住む人々が黒人であったとも考えられる。支配されていた側が、まるで違うあり方でふるまう。
あるいは冒頭でMがアナログレコードを聴きながら、まるで踊らずにじっとりとしゃがむ姿と、Bがデジタルミュージックで激しく踊る姿。それは皮肉か予言か。

もちろん、老いと若さも一つの対立軸としてとらえることができる。へたるM、無言で踊り続けるB。Mを始めとした、西側ヨーロッパの代表的アーティストの世代が老いに入ってきたという事実。

narraitive、特にここではMの体験と思い出話は、ガイドとしての役割を果たしながら、解説者にはならず、その柱から胞子をとばし、舞台という構造(visual/time)を利用して、観客を現象面の向こうへと誘う。彼の物語そのものにとどまらず、そこから想起させる社会や歴史といった一般的事象にまでその視線を拡散させる。それこそが、パフォーミングアートの現象学的可能性であり、「この次の世代」である私達がよりいっそう探求していくべき主題である。Mはプロフェッショナルとして、あるべきアーティストの姿を確かに見せてくれた。

Sunday, June 01, 2008

Renewal of Website

As you see, I am improving my web site and add the section of text. Moreover, the section of works shows a lot of information and videos.

Slowly, but certainly I am making better my web site. I would continue to organize to make it easier to get information of myself for the visitors.

Hajime Fujita Official Web Site

お金の手前にも人がいるが、お金の向こうにも人がいる

実に2年ぶりにone of my best friends(どう書いたらいいんだ日本語で:P)の友人Sに会う。落ち合った劇場で思わず感情的に声をあげてしまう:D インド人の彼はロンドンで働くダンサーで、僕とは似ても似つかないフィジカルなダンサーだが、どこか頭の芯が一本ぬけてて、なんとも美しい人間だ。

彼とともにリスボンの港湾地帯にあるクラブへ。20euroというエントランスがポルトガル人の若者にどう意味するのかは簡単に予想のつくことである。しかしそれはそれでよかった。お金の手前(持たない/持てない側)のことを、まあ自分がそうなんだから当たり前なんだけど、いろいろ考えてきたけど、お金の向こうにだって人がいるということも、決して忘れてはならないのだとフッと気づかされた。

薄明かりの中タクシーからおりて、ふらふらと少し歩き、帰宅。さすがに酔っぱらったか、思わずうずいて泣き出してしまう。いい友人ほど遠く、思ったときに会うことはできない。