Saturday, February 17, 2007

ポンティ「問い掛けと直観」抜き書きメモ

図書館にてレポート執筆の傍ら中山元先生編訳の「メルロ=ポンティコレクション」を読む。「問い掛けと直観」(見えるものと見えないものより)から幾つか抜き書き(それぞれのパラグラフに接続性はなし)。
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本質とは存在や世界のありかたやスタイルにすぎないし、「存在」(Sein)そのものではなく、「このようにあること」(Sosein)にすぎない。

しかし本質的でないものを排除した後に残っているものは、ここで考えている「存在」に必然的に所属するものなのだろうか。私がこの問いに「イエス」と答えるためには、私は自分の<場>の上空を飛行し、この<場>を取り囲み、沈殿している全ての思考を、そして何よりも私の時間と身体を宙づりにするか、少なくとも再活性化する必要があるだろう。これは事実として不可能であるだけでなく、私にとって世界と存在の厚みを作っている一貫性が奪われることになってしまう。そしてこの一貫性なしには、本質とは主観性の狂気であり、傲慢さにすぎないものになってしまう。だから本質的でないものが私に存在する。

というのは、可視的で現前するものは時間と空間の内部にあるのではなく、もちろんその外部にあるのでもない。この可視生に対抗することができるのは、その前にも、その後にも、その周囲にもないからである。しかしそれは単独ではなく、それで全てでもない。それは私の視線をふさぐ。時間と空間がその彼方にまで広がっていると同時に、その背後にあり、奥行きとして隠れているということである。このように可視的なものは私を満たし、私を<占める>が、それが可能であるのは、見ている私が、無の背景の上にそれを見るのではなく、それ自体の場において見ているからである。それを見るものである私そのものも<見えるもの>である。それぞれの色、それぞれの音、それぞれの手触りの肌理、現在と世界の重さ、厚み、<肉>が生まれるのは、それを感受するものが、ある種の<巻き込み>や<二重化>によって、それらのもののうちから自分が生まれると感じるからであり、自分がそれらと必然的に同じ質で出来ていると感じるからである。

人間は不透明な事実と清澄な理念の中間において生き、認識するものではない。事実の<族>がその一般性、その親近性を書き込み、私たちに固有の経験の次元と場の周囲に集まるその場所に置いて、相互に重なり合い、交差する場所に置いて、人は行き、認識するのである。このなまの実存と本質の場は、神秘的なものではない。人間はこの場の外に出ることはないし、これ以外の場を持たないのである。事実と本質はいずれも抽象されたものだ。

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