Saturday, June 07, 2008

Miguel Pereira "DOO"

部屋の外からまだうるさい音楽が聞こえる。今日はEuro 2008でポルトガル戦があって、どうやら勝ったらしい。

Alkantara Festival、今日Miguel Pereiraの"DOO"をCCBで鑑賞、これで僕は買ったチケット分全部みた。
他は、Berlin "Bonanza", Parts "New Works", Jonathan Burrows+Matheo Fargion "Speaking Dance"、Vera Montero "até que deus é destruído pelo extremo exercício da beleza"。雑感としては、Jonathan Burrowsはやっぱり面白かったけど(でも2006年の"Both Sitting Duet"の方がスッキリしていてよかった)、ほかは正直どうでもよかった。Partsは、友人二人のデュオはよかったけど、ほかの学生の作品があまりにも素人すぎて、翌日別のプログラムにいく気力がなくなってしまった(劇場が郊外にあるのと、公演が21時から3時間もあるというのも手伝った。昨年の卒業公演の作品は結構面白かったのに。)。Vera Monteroはいい作品だったけど、もう一つピンとこなかった。彼女の作品はともすると作り込みすぎるきらいがあるが、この作品もちょっと磨きすぎた感があった(お客さんの半分が帰ったというフランスでのプレミアを見たかった)。

で、Miguel Pereira。ほっとした。ちゃんとしたアーティストの作品だった。おそらく短期間のレジデンシーによるものだとはいえ、よく練られていた。

クレジット:
project by miguel pereira | in collaboration with ana pais, bernardo fernando (pak), nuno coelho, rui catalão, sérgio cruz, thomas walgrave, jari marjamaki | production o rumo do fumo | co-production alkantara, théâtre national de bordeaux en aquitaine | artistic residence and support centa (vila velha de ródão), culturarte (maputo), capa/devir (faro) | support balleteatro (porto), associação binaural, atelier re.al, centro cultural franco-moçambicano, rádio oxigénio, instituto camões| o rumo do fumo is supported by ministério da cultura/ direcção-geral das artes | project co-produced by next step, with the support of the culture program of the european union

以下は、学校で後日レポートを書かねばならないので覚え書き。

作品の流れ:
舞台、全体的にブラックボックス。スモークが舞台上にたかれていて、煙たい。CCB小アトリエ。舞台後方に木目の色そのままの長スツールがおかれている。中央にテーブル、ミュージシャンがパソコンほか機材をそこにおいてオペレーション。テープルの前には小さいスピーカー(モニター用?)、電源ドラムなどがおかれている。舞台上手側、スツールのすぐ脇には黒い扇風機。

開演、Miguel(以下M)、Bernardo(以下B)、Jari(ミュージシャン、以下J)上手より現れ、それれ上手、中央、下手に腰掛ける。MはすぐにLPレコードプレーヤーを舞台中央手前におき、自信はしゃがみこんでそのすぐ後ろに。クラシックミュージックながれる(曲目判別できなかった。)。スポットが、客席の中央あたりからと、かなり後方よりレコード番に投影され、Mの顔にレコード版の反射がゆらめいている。レコードは、始め通常に流されているが、途中からMが針を動かし何度か場所を変える。最後は短いフレーズが自動で繰り返される。

レコードプレーヤーを片付ける。その電源コードを扇風機に付け替える。扇風機動く。首をふりながら。扇風機は、舞台下手方向斜め後ろにむいていて、Mがスツールにすわるとちょうど彼にあたる角度になっている。

M、座っていた位置から真っ正面、つまり舞台上手側に立ちナレーションを始める。モザンピーク、アフリカ、彼の生誕の地。30年と足を踏み入れていなかった彼のふるさとに訪ねたこと。モザンピークはポルトガル・コロニーであったことの確認(一言で)。彼の思い出話。コカコーラを始めてみて、それはポルトガルもそのころ独裁政権化でみることが不可能であったからとても驚いたので、両親に「コカコーラだよ!!」といい、それから「コカコーラ」と呼ばれるようになったこと。そしてモザンピーグの伝統舞踊「Txava Txava (チャバチャバ)」という歌と踊りを学校で練習し発表したこと。歌と、チャバチャバの意味をとうとうと説明(しまった、詳細忘れた:P)。

するとおもむろにBたちあがり、舞台下手がわ、Mと同じライン上にたち、Mにチャバチャバの意味はそうじゃないと簡潔に、キッパリと反論する(たしか女でドラムの中に入るとか何とか)。二人、おもむろに後ろ向きで腰を左右に降り始める。スタンプも始める。ふたりで踊る/歌うチャバチャバ。腰を振り、スタンプをふみ、指差しながら左に回り、右に回り。しばらくして、Bを残しMはスツールにもどって腰掛ける。荒い呼吸。「Bにあって、45になったら自分がかつてのようにチャバチャバがおどれないと分かった」

(このへん少しうろ覚え)
二人で踊ること、Bが踊りながらMがナレーション。これを何度か繰り返す。途中、MはBと会って彼の過去のピースを思い出したといい、そのピースと思われる振り付けを二人で踊る。そのときMはかつら(アフロ)とハイヒール(ともにそのピースで使ったのだと説明する)を身につけて。Bがサイドステップを繰り返しているときに、M「モザンピークで、かつて自分たち家族が暮らしていた家に訪ねた。家はまだそこにあった。住んでいる人に、ぜひ中を見せてほしい、私にとって大切なことなんだと訴えるが、彼らは上司に尋ねないとわからないという。再び訪れ、その上司と話すが、彼は私を招く準備をしていなかった、また連絡するから、という。しかし連絡はこなかった。」

Bが靴をぬぎ、靴下を脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンをまくり上げる。Mはかつらとハイヒールを舞台中央手前におく。かつらが上手側、ハイヒールが下手側で両者の間にはやや間隔がある。上半身裸になったはそこに近づき、しゃがみこんでかつらをみにつける。ハイヒールを両手でそれぞれにつかみ、トウの部分を握って、かかとの部分でリズムをたてる。アフリカドラムの律動。次第にはげしく。J、サンプリングしていたのか、Bのリズムと時にシンクロするようにドラム音がスピーカーより。どんどん両者の音が激しくなり、照明が暗くなっていく。代わりに舞台再度床からのライト(しばしばフロントライトに利用される小さな灯体が並列に並んだもの)があがっていき、Bはかつらとハイヒールをぬいで、Mがおいた元の位置に。舞台下手側にうつり、Bは次第に激しく踊り始める。Jの音も電子音がまじり、オリジナルのドラム音がどんどん遠くなりながら、激しさを増していく。照明は今度は全体に暗くなり始め、Bの影がはげしく躍動するのをみせる(このへん冗長だった)。舞台シーリングの蛍光灯が何度かパチパチと瞬き、暗転になっていく。クロスフェードして、後方のスツールにスポット。音は少し残っているが、Bは腰掛ける。J、ゆっくりと音楽をフェードアウト。M、立ち上がり、扇風機のコンセントをぬく(つまりこれまでずっと動いていた)。ファンが止まるまで動かない。静寂。3人立ち上がり、舞台上手へ消える。終演。

考察:
パフォーミングアートにおける現象学的可能性について意識的、戦略的である。
あらゆる情報は断片として提供され、それは作品内において対象化されない。すべては点として出現し、観客はその向こうへ誘われる。

当然ながら、断片はそれ自体として観客をその向こうに誘導しない。この作品では二つの事象を対比させ、その間を線として結ぶことを挑発することで、観客の思考を現象面の向こう側へと展開させる。

舞台美術そのものが、シンメトリーであり、左、右、中央と幾何学的に分割され、対比関係を想起させる。しかしここで秀逸なのは、中央のテーブルは厳密には中央ではなく、大体中央、であり、その前に置かれたモニター用と思われるスピーカーも下手側によっているなど、全体としてのシンメトリーを微細に崩している。上手側にも扇風機が置かれ、下手側とは完全に同一ではない。この崩しが、観客を強迫せず、リラックスさせる。中央にミュージシャンを配置することも、音楽を操作するという行為を見せることで、彼を観客の側の存在(オブジェクトとしての存在ではない)と見立て、架空の舞台であるという構造をあらわにし、了解させることで、観客に安心感を与えている。この崩しが、緊張感を与えずに、観客の視線における、対立という関係性の想起をゆるやかに助けている。

対立軸として何よりも考えさせられるのは、言うまでもなく、ヨーロッパ人とアフリカ人、ないし白人と黒人。これには当然植民地主義とポルトガル/モザンピークにおけるその歴史的事実を介在させる。白人であるMがアーティストとしてダンサーであるBに指示を与えている。Mが彼の個人的な経験を吐露し続けるのに、Bが冒頭をのぞいて無言であり続けることがそれを明示・強調する。また、Bが着ている服はヨーロッパ人の服である。しかし、Mが踊るその真後ろでBは淡々と同じステップを踏みながら、Mを超えて、虎視眈々とした眼差しで観客の方を向いている。先進国としてのヨーロッパ、開発途上国としてのアフリカ、しかしその構造がいつまでも続くとは限らない。
Mはモザンピークに行き、かつての家を尋ねたが、まるで断られてしまった。語られてはいないが、そこに住む人々が黒人であったとも考えられる。支配されていた側が、まるで違うあり方でふるまう。
あるいは冒頭でMがアナログレコードを聴きながら、まるで踊らずにじっとりとしゃがむ姿と、Bがデジタルミュージックで激しく踊る姿。それは皮肉か予言か。

もちろん、老いと若さも一つの対立軸としてとらえることができる。へたるM、無言で踊り続けるB。Mを始めとした、西側ヨーロッパの代表的アーティストの世代が老いに入ってきたという事実。

narraitive、特にここではMの体験と思い出話は、ガイドとしての役割を果たしながら、解説者にはならず、その柱から胞子をとばし、舞台という構造(visual/time)を利用して、観客を現象面の向こうへと誘う。彼の物語そのものにとどまらず、そこから想起させる社会や歴史といった一般的事象にまでその視線を拡散させる。それこそが、パフォーミングアートの現象学的可能性であり、「この次の世代」である私達がよりいっそう探求していくべき主題である。Mはプロフェッショナルとして、あるべきアーティストの姿を確かに見せてくれた。

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