フランス人の旅行者が一泊していった。大阪に一年ほど住んだことがあるらしく、変な日本語を喋るが、注意するきもあまりおきない。自分の英語とポルトガル語もいいかげんなもんだ。
引き続き具合が悪く、そういう状況を彼に話すと、「今が一番悪いだったらこれから良くなる以外にないってことだよ、待つしかないさ」と言われる。それはそうだ。
彼の妹さんだかお姉さんだかはハープ奏者だそうだ。「芸術家っていえば聞こえはいいけど、実際生き延びるには散々」と言う僕の言葉に相づちで返すのは、その妹さんだか姉さんだかのことを知っているからだと。
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机の前には2004年に上演した「これが私の優しさです」のチラシを貼っている。この作品は僕にとって大きな転機になった作品だった。それは前のめりになって何かを「創造」することへの疑問を肯定し、自分が既に見ているもの感じているものを素直に現すあり方への挑戦だった。
メルロ・ポンティの現象学的視点の基本は「既に(already/já)、そこにある」ということである。私は既に知っているのであり、「何を」知っているのかにとどまらず、「どうやって」知っているのかと問い掛けることが重要なステップである。
だけれども、残念ながら(コンテンポラリー)ダンスの世界ではこうした発想に至る人は多くない。詩や絵画にくらべて弱さと、また歴史の浅さを感じるのはこういうところだ。
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