Friday, December 29, 2006

メルロ=ポンティからベルクソンへ−言語論の場合−

武蔵大学のwebで清水誠先生の文章がよめるのです。
大学の内部雑誌用の文章なのかしら?
ともかくこういうの公開してくれるのって助かる。
全部よんでないけど、とりあえず2ページ目までから抜き書き(コピペ)。

凄く分かり易い。有り難い。

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こうして「語は意味を持つ」(le mot a un sens) として「持つ」という観点から語について語り、語に内在する一種の力能を認めるならば、物的身体と精神との中間にあって両者を媒介し、主客対立図式を乗り越える立場を得ることができるであろう、とメルロ=ポンティはするのである。

引き続いて彼は、この経験は「閃光のように瞬間的なものであるが」、表現(expression)の実践によって我有化(approprier)することができることと、対象の命名(denomination)はそれの再認(reconnaissance)の後で生じるのではない、命名と再認とは同時に性起するのであり、両者はただ理性的(ratione)に区別されるだけであり、つまり同じ事態であることとを述べている。これらはいずれも事柄が知性直観の問題であることを示している。もっとも、知覚対象の「命名がそれの再認そのものである」とメルロ=ポンティは言うのであるが、これは知覚対象を包摂(subsumer)すべき概念が精神のうちに先在し、それが恣意的に名前と結び付くというのではなく、「語が意味を孕む(porte)」という意味である。

なにゆえに本来的な例が求め難いかと言えば、そのためには初めて言表されるべき言わば正統(autentique)なパロールとそのようなパロールに基づく二次的なパロールとを区別しなければならないからである。というのも、「語が意味を持つ」という命題が当てはまるのは前者のみに限られるからである。換言すれば、通常の経験的言語活動についてこの命題が主張されているのではないのである。ということは、言語論的脱構築の結果として提出されるであろう範疇表の形が、カントの提示した純粋理性のそれと大差ないものになる可能性があるということである。

したがって改めて提出されるであろうその表の資格についての解釈問題を別にすれば、重要な係争点としては、生まれ出ようとする状態(a l'etat naissant)にある未曾有の思想における、言葉と概念との後先関係の問題だけであると言えるのではなかろうか。

新たに生まれる思想の本質とは言うまでもなくそれの意味であるが、その思想の存在とはその言葉なのである。意味が先にあってそれの言葉が考えられるのではない。その言葉はその意味と同時に生まれるのである。言葉と意味との後先関係はどうかと言えば、両者は厳密に同時である。それどころか、言葉のうちに内在する意味、言葉に住み着く(habite)意味においては、言葉が先に立つかのように思われる。その言葉なしにはその意味は少なくとも完成しないのである。それは新しく創造される言葉であるから、新しい意味である。

これによって言われることは言語表現が持っている調子(トーン)とかアクセントとかの理解が、意味の基本的理解の初期的段階であるということである。これらはいずれもベルクソンが感覚=運動的(sensoriel-moteur)と呼んだような、意味の感性的理解が悟性的理解に先行しこれを基礎付けるのでなくてはならないということを言っているのである。それが感性的理解に基礎付けられた悟性的理解であってこそ、或る「言語表現が意味を持つ」ということが起きるのだというのである。この点に関してメルロ=ポンティは、言語表現と音楽や絵画における表現との間に差異を認めないのである。

われわれは音楽において楽器の素音は音楽的意味行為の素材であって音楽的意味と素材としての楽音とはレベルを異にすると言ったばかりであるが、音楽のなかに一度組み込まれた以上は、楽音は単なる素材であることを止め、その音楽の意味と不可分になるのである。音楽的意味が楽音に受肉するからである。絵画においては絵画的意味が絵の具に受肉する。同様に、演劇において役者が入神の演技をする場合には、役者は消えて役が現象することになる。

これらの場合と同様に言語表現においても、記号(signe)を意味作用(signification)が食い尽くすことになる。そして「語が意味を持つ」のはそのときなのである。記号としての語は意味を表象するのでも翻訳するのでもなくそれを現成するのである。即自存在としての語が対自存在化するのである。のだから、意味は語の外に超越的に存在するのではない。語に内在しながらそれに生命を与えるのである。語は意味の即自=対自存在にならねばならないのである。「パロールは思惟の衣服ではなくて、その身体である」と言われる所以である。

やがてバンヴェニストが論証するだろうように、 各国語体系が示す全体論的性格は、各国語体系内における語の能記と所記との有縁性を帰結するのである。したがって、例えばイヌとdogとの等価交換可能性を意味するような普遍的思惟(pensee universelle)は存在しない。またこれの換喩である規約的思惟(pensee conventionnelle)の典型たるアルゴリスム(記数法)は人間不在の自然を表しているが、これとても言語活動を通じて人間に関わる限り、すでに絶対的な意味では規約的ではないのである。「こうして厳密に言えば、規約的記号は存在しないのである。」

これらの諸言明が明示して余りあるように、『知覚の現象学』時期のメルロ=ポンティ言語論にはソシュール記号論の影響は皆無である。ソシュールの思想とのそれの関わりについては、『シーニュ』以降のテクストについて見なければならぬであろう。

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デリダが死んだのは2004年だったことを思い出しました。昨日のことのようで、もう2年もたつのです。

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