Leslie Mannès "Delusive Figures"/Leslie Mannès&Manon Santkin "Byproduct 3"
at Kaaistudio 19/10/2006
Lesile MannesはPARTS、SEADを出た若手の振付家で、いわばコンテンポラリーダンスにおける王道的な経歴を持ったヨーロッパによくいるタイプの一人である。キュレーターが上演前のイントロダクション(途中で飽きて退席したけれども)通り、新しい世代の一人であり、ヨーロッパの同世代たちの傾向と方向性は重なる-ヴィジュアルアートとの接近である。身体、またそこにあるあらゆるオブジェを、コンセプトへとつなげていく。
-----
この作品は、徹底的に身体その物理性を全面的に押し出していた。そこにあるのは運動し、志向する「肉の塊」なのである。冒頭及び何度も繰り替えされる、かがめた背中だけを平面的に示すシーン。細長い手を使って平行移動する様は、奇怪なモンスターのようであり、つまり興味深い「絵」を提供する1つのオベジェクトである。
あるいは、1人のダンサーの体を2人のダンサーたちがつまみ上げたりひねったりする様も、あからさまに「肉」であることを示そうとしている。持ち上げられ、引き延ばされた乳房は、絶対的に性的なイメージから遠ざけられようとしている。あるいは、顔面の筋肉を動かされ、本人の意思と無関係な表情を作らされる様は、過疎的なオブジェクトとしての「肉」である。
プログラムに書いてある「作品のテーマ」の通り、こうした身体性は現代人の身体、また身体への向かい合い方を良く暗示している。鷲田清一さんが「悲鳴を上げる身体」で用いている言葉を借りれば、「観念でガチガチになった身体」である。身体が抽象的な物質、肉として捉えられる感覚は、西洋医術、死体の解剖によって始まり、作り上げられた思考のそれである。都市のシステムの中に生きる私たちは、もう容易にこうした肉に還元される前の身体へ戻ることが出来なくなっている。いわば地に足がついておらずふわふわと絶えず浮かんでいる様なもので、こうした思考は大変脆い。
ではこの作品は、そんな現代人の弱さを提示するだけの悲劇なのか。いや、彼等はとてもキレイに小さな希望も指し示すことを忘れなかった。棒立ちになったダンサー。別の1人のダンサーが紙箱(中にまた別のダンサーが入っている)から投げ渡された服を次々にテープで貼付けていく。モード、着せ替え人形の様なオブジェクト性の提示である。しかし、ニット、スカート、ハイヒール、サングラスを棒立ちのダンサーに貼付けていたダンサーは、次に全く同じものを今度は自らに身につける。そして、スタスタとハケ口へ歩いていく。着せ替え人形の様な、同じ肉が、しかし「動的」であるということ-どのような状態・状況(観念でガチガチになっていたとしても)に会っても、確かに「生きている」ことを歩き出すその身体は示しているのである。生きていること、動的であるということは、膨大な可能性を私たちが常に持っているということだ。
-----
秀逸な作品であり、これからの作品もとても興味深いものだが、しかし同時に、考えさせられるものもあった。劇場のロビーで展開された彼女のもう一つの作品が分かり易いのだが、ダンサーたちの身体は常に何らかの目的と対称関係にある。インスタレーションとしてのこの作品で、彼女たちは中央に置かれた台に、幾つかの写真を配置し、そして入れ替わり立ち替わり次々に並び方を変えていく。その配列が、様々なメッセージ性を浮かび上がらせる、おそらくそれがこの作品のコンセプトである。僕が気になっているのは、この写真を運んでいくそのときのダンサーたちの身体である。「運ぶ、並べる」と行った目的に対して、彼女たちは忠実で、スキが無い(ムダな動作を極力排除しようとしている)。ゆるみがないのである。劇場で行われた前述のパフォーマンスにおいても同じ様にダンサー達の身体は、まっすぐにその目的へと向かっていた。
これはMeg Stuartの「SAND TABLE」を見たときにも感じたことだが、近年のヨーロッパ人アーティストの作品におけるダンサーの身体性の一つの傾向であるように思う。何を言いたいのかと言えば、こうした思考は、とても狭量的であると思うのだ。持続する時間のただ中にある(或は持続する時間そのものである)身体は、可能性の海を常に漂っている。身体にゆるみがある時、私たちはそこに、そうした可能性への開きを感じることができる。様々な事象が身体に飛び込んでくる様を見ることができるのだ。それこそが、「作品」や「芸術」と行った制度を超えた彼方へ向かう道を与えてくれるように僕は思っている。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment