例によってParisまでAir Berlin。重さ制限でいつも手荷物までチェックされるので、紙袋に本やら死ぬほど詰め替えてカウンターにいったらお姉ちゃんなぜか既にぶち切れてて、"I reserved my ticket for Paris on the internet, my number is..."といいかけたら"Only passport please!"と絶叫される。だかだかチケット渡されてハンドラゲージチェックなし。おいおい。
---
このParisのホステルは正直泊まる場所が見つからなくてしょうがなく来たんだけど、とにかく凄い皆話す話す。しばらく見失っていた人の深い優しさにちょっと触れた感覚がある。皆元気だ。皆旅をしている。
アルゼンチーナから来ているAは日本語を6ヶ月勉強していたそうである。凄い。エスパニョールに発音がにてると言われる。ぼくもドイツ語もっともっと頑張ろう。同じ部屋の一見日本人の彼はブラジルから来ていて、お父さんが日本人なんだそうだ。今でも大きな日本人コミュニティーがあると言われる。戦後途切れてしまった糸って、それでもこうしてどこかで交わる瞬間が在る。彼はアフリカの血も入っているそうで、世界中の血が入っているんだねというと笑われる。
Friday, January 19, 2007
Thursday, January 18, 2007
日銀が利上げ見送り
これで円安が一層加速。
景気が良くなればバンバン、ドル買いして、悪いときも怒濤のように流れていく円をせき止めず。
一体この国の経済というのは自尊心というものがないんだろうか。
自分の国の価値を自分たちで保とうとする当たり前の国家としての行いがどうして行われないのか。
読売新聞は日銀がもっと利上げの意義を説明しろと書いていたけど、マスコミこそそこで何が起こっているのか、検討し、双方の在り方をちゃんと記述して、国民の意識を啓発するべきなんじゃないだろうか。ただ流れてくる情報に文句つけて垂れ流して、それで?
景気が良くなればバンバン、ドル買いして、悪いときも怒濤のように流れていく円をせき止めず。
一体この国の経済というのは自尊心というものがないんだろうか。
自分の国の価値を自分たちで保とうとする当たり前の国家としての行いがどうして行われないのか。
読売新聞は日銀がもっと利上げの意義を説明しろと書いていたけど、マスコミこそそこで何が起こっているのか、検討し、双方の在り方をちゃんと記述して、国民の意識を啓発するべきなんじゃないだろうか。ただ流れてくる情報に文句つけて垂れ流して、それで?
"構造"をみせる
友人のすすめで、
Candice Breitz "Working Class Hero"(A Portrait of John Lennon)
をBawag Foundationにてみる。20人弱の人がイヤホンでジョンレノンの歌を聴きながら、歌っている、その顔がずらりと横一列に並んでいる。とても面白かった。
"John Lennnon"についての個人的な記憶が彼の心に絡み付いている(まさに「思い出」によって過去から絡みとられる)その顔。に、対峙させられる鑑賞者。歌う顔は歌う顔のその向こうへと鑑賞者の視線を誘う。
そうなのである。本来アートというのはいずれにせよ、現象の向こうへと見るものをいかに連れて行くか、それが裁量なのである。ところが、ここのところのコンテンポラリーダンス(のつまらない人たち)は、ただ現象をどう浮び上がらせるにしかその志向が及んでいない。こうした状況に対する反発が、僕の次回作のコンセプトにおいて非常に重要な位置を占めてているのだった。再確認した。
ということは、僕がやろうとしていることは、自分(アーティストとしてそこにいる)の在り方、構造を提示すること、つまり本来特に触れることなくともそうあるものをわざわざ「そうあるんですよ」と言葉にして言い表すような、いわばこっ恥ずかしいほどの、観客への「丁寧さ」(あるいはおせっかい)なのである。
思えば既に前作"parole"の時点で、かのO氏が東京公演に来て下さって、「なんであんなことをわざわざ喋るんだ。あれがいらん。」とさすが厳しい先生のお顔でおっしゃって下さって、やはりその時、Sさんが、「まあそれが世代の違いだよね」とおっしゃっていたのは、やはりこういう違いであると思う。 構造は構造そのものとして提示すること、それで十分というのがO氏、そしてその世代の方々の基本的な姿勢であるのだろうと思う。(そしてO氏の手前である寺山などは、構造について「ここにこういう構造が在ります」といっていた人である。歴史的なつながりの上にあることももちろんである。ただし僕の場合はもっとvisual artsの影響が既に複雑に絡み付いた世代にあるので、寺山と同じやり方はやろうとしても出来ない。)
---
友人の次回作のアイディアを聴き、やはりその面白さに圧倒される。まだこれからの作品なのでハッキリとかけないけれども面白い。「ポストコンセプチュアル」という言葉をつかって、「やっぱりこれからはただコンセプトがあって、それだけじゃだめだよね。」という。本当にそう思う。けれども「コンセプトを動的に扱っている作家に興味がある」と僕が言うと、「動的であるとか静的であるということははじめ君の主観のうちにあるんじゃないの」と言われる。アイタタ。やっぱりまだまだ青いなぁ。
Candice Breitz "Working Class Hero"(A Portrait of John Lennon)
をBawag Foundationにてみる。20人弱の人がイヤホンでジョンレノンの歌を聴きながら、歌っている、その顔がずらりと横一列に並んでいる。とても面白かった。
"John Lennnon"についての個人的な記憶が彼の心に絡み付いている(まさに「思い出」によって過去から絡みとられる)その顔。に、対峙させられる鑑賞者。歌う顔は歌う顔のその向こうへと鑑賞者の視線を誘う。
そうなのである。本来アートというのはいずれにせよ、現象の向こうへと見るものをいかに連れて行くか、それが裁量なのである。ところが、ここのところのコンテンポラリーダンス(のつまらない人たち)は、ただ現象をどう浮び上がらせるにしかその志向が及んでいない。こうした状況に対する反発が、僕の次回作のコンセプトにおいて非常に重要な位置を占めてているのだった。再確認した。
ということは、僕がやろうとしていることは、自分(アーティストとしてそこにいる)の在り方、構造を提示すること、つまり本来特に触れることなくともそうあるものをわざわざ「そうあるんですよ」と言葉にして言い表すような、いわばこっ恥ずかしいほどの、観客への「丁寧さ」(あるいはおせっかい)なのである。
思えば既に前作"parole"の時点で、かのO氏が東京公演に来て下さって、「なんであんなことをわざわざ喋るんだ。あれがいらん。」とさすが厳しい先生のお顔でおっしゃって下さって、やはりその時、Sさんが、「まあそれが世代の違いだよね」とおっしゃっていたのは、やはりこういう違いであると思う。 構造は構造そのものとして提示すること、それで十分というのがO氏、そしてその世代の方々の基本的な姿勢であるのだろうと思う。(そしてO氏の手前である寺山などは、構造について「ここにこういう構造が在ります」といっていた人である。歴史的なつながりの上にあることももちろんである。ただし僕の場合はもっとvisual artsの影響が既に複雑に絡み付いた世代にあるので、寺山と同じやり方はやろうとしても出来ない。)
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友人の次回作のアイディアを聴き、やはりその面白さに圧倒される。まだこれからの作品なのでハッキリとかけないけれども面白い。「ポストコンセプチュアル」という言葉をつかって、「やっぱりこれからはただコンセプトがあって、それだけじゃだめだよね。」という。本当にそう思う。けれども「コンセプトを動的に扱っている作家に興味がある」と僕が言うと、「動的であるとか静的であるということははじめ君の主観のうちにあるんじゃないの」と言われる。アイタタ。やっぱりまだまだ青いなぁ。
Wednesday, January 17, 2007
ドイツ語の感覚って動詞が英語ほど強くないのかな
ドイツ語って動詞が後置になることがよくあるのだけれど、ということは英語ほど動詞に対しての意識って強くないのではないかな。"Heute schöne Tag"とか話しているのを聞いたり、街頭の広告でも動詞が抜けているのをたまに見る。英語だと天気にしたってIt's really nice sunny day. とか、動詞が抜けてる文章ってあまり考えられない。
少しずつ語彙が増えてきて、クラスのトルコ人のおじさんに精一杯自分のことを伝えてみたりする。向かいのタイ人のお姉ちゃんも30代と知り、クラスで最年少であったことがよく分かった。苦労している人は同じように苦労してる人に優しい。これは本当にそうだ。外国に来て働くということは、本当に大変なことだ。
それでも皆明日の方向を向いて必死に生きている。僕も負けられない。
少しずつ語彙が増えてきて、クラスのトルコ人のおじさんに精一杯自分のことを伝えてみたりする。向かいのタイ人のお姉ちゃんも30代と知り、クラスで最年少であったことがよく分かった。苦労している人は同じように苦労してる人に優しい。これは本当にそうだ。外国に来て働くということは、本当に大変なことだ。
それでも皆明日の方向を向いて必死に生きている。僕も負けられない。
Tuesday, January 16, 2007
無事applicationは出せた
どう考えてもベストとは思えないけれども、ともかく出した。最低限のことはやった。この状況の中良くやったと思う。快適とは言えなかったけども、8日間殆どベットに張り付いてたホステルを離れ、今日友人の家へ。金曜日にはもうフランスである。
Wienの街はやっぱりいい。この街の空気はどこか心地いい。天気がいい日が多い。
しかし8ヶ月という長旅もついに最後の瞬間に近づいてきたのだ。
あっという間だった。
Wienの街はやっぱりいい。この街の空気はどこか心地いい。天気がいい日が多い。
しかし8ヶ月という長旅もついに最後の瞬間に近づいてきたのだ。
あっという間だった。
Sunday, January 14, 2007
こんなときは何もしない方がよいことは知っているのだ
知っているのだけれども明日が重要なアプリケーションの締め切りな訳で、こうしてアダアダと風邪を引きずりつつ作業をし続けなければならないのである。でも調子が悪いのだから全然良い文章なんて浮かばず、とりあえず最低限のところを無理矢理滑空させて飛ばすようなそんな感じな訳になるのだ。かといってこういうことをいちいち自分に責めすぎると、底からようやくちょっとは上澄みぐらいのところまで立ち直ってきた精神もまた戻らざる負えなくなる。この微妙な気持ちの保たせ方は、全く持って微妙。
吾妻先生のどうしようもないweb日記を読んでそんな気持ちに拍車をかけてみる。そういえばいつかこういう風に落ちたときに、ひたすら松本零士先生の「元祖大四畳半大物語」を読んでいた時期があったなぁ。
吾妻先生のどうしようもないweb日記を読んでそんな気持ちに拍車をかけてみる。そういえばいつかこういう風に落ちたときに、ひたすら松本零士先生の「元祖大四畳半大物語」を読んでいた時期があったなぁ。
Saturday, January 13, 2007
新しい薬をもらった
薬局に行って新しい薬をもらった。
とにかく体全体の調整が何かうまくいってない感じと病状を説明したら、随分時間をかけて探してきてくれた。ヨーロッパの薬局って、お店にもよるけど、とにかく薬を本当にたくさん持っていて、何かプロフェッショナルな感じがひしひし伝わってくる。
胃腸の調子を整えてくれるということ。ビタミンも取りなさいと高いビタミンも一緒に買わされる。でもここまで来たらすがるしか無い。
でも京都に来たばかりのときも、まだ友達が周りにいなくて、病気になったらやたら孤独になって辛くなったものだ。なんとかなんとか乗り切ろう。
とにかく体全体の調整が何かうまくいってない感じと病状を説明したら、随分時間をかけて探してきてくれた。ヨーロッパの薬局って、お店にもよるけど、とにかく薬を本当にたくさん持っていて、何かプロフェッショナルな感じがひしひし伝わってくる。
胃腸の調子を整えてくれるということ。ビタミンも取りなさいと高いビタミンも一緒に買わされる。でもここまで来たらすがるしか無い。
でも京都に来たばかりのときも、まだ友達が周りにいなくて、病気になったらやたら孤独になって辛くなったものだ。なんとかなんとか乗り切ろう。
Friday, January 12, 2007
Thursday, January 11, 2007
Jobsのスピーチ
Jobsのスピーチをビデオで昨日の午前中見ていた。彼のプレゼンはやっぱり引き込まれる。すごい。iPhoneはなんかSFの世界のデバイスが本当に出来たみたいだった。二本の指を拡げて映像を拡大する瞬間とか溜息が漏れた。
Wednesday, January 10, 2007
depressed
i think now is one of worst time in this travel. i am really depressed. i can not mention about most terrible thing which happened here, but anyhow it was really hard for me and because of that i became really bad sick. i was lying on the bed more over 1 week, and still not perfect. maybe i have 2 types of tiredness, one is from that happening, the other is from tiredness from all the travel. but i already reserved plane ticket for japan on 9th Feb. via korea. feel finally. anyhow one more week here and next week go to angers again, and after that go south to see a school in monpelier. love to you. love to see your e-mail. write me anything, welcome:)
Tuesday, January 02, 2007
喫茶Yがもう営業しないそうで
友人が、僕の好きだった京都の喫茶Yがもうやらないとお店に掲示があったと教えてくれた。
カウンターのみで、たしか8人かそこらしかすわれない。休日はともかく平日は殆どお客さんがおらず、常連さんは結構いたけど、逆に回転率が悪い。みんなそこのJさんと話すのが目当てだったからだ。それはね、本人がやる気をなくしてしまったらしめるよね。お店は旦那さんが受け持つ夜のバーはそのままやるらしい。世界に一つしか無いような、希有な場所だったな。残念。
準備をあれやこれやして、ようやく明日からGrazにたつ。楽しみ。
カウンターのみで、たしか8人かそこらしかすわれない。休日はともかく平日は殆どお客さんがおらず、常連さんは結構いたけど、逆に回転率が悪い。みんなそこのJさんと話すのが目当てだったからだ。それはね、本人がやる気をなくしてしまったらしめるよね。お店は旦那さんが受け持つ夜のバーはそのままやるらしい。世界に一つしか無いような、希有な場所だったな。残念。
準備をあれやこれやして、ようやく明日からGrazにたつ。楽しみ。
Sunday, December 31, 2006
Execution of Hussein
This is the 'justice' of US.... But what people are thinking?
from Wikipedea
India: "We had already expressed the hope that the execution would not be carried out. We are disappointed that it has been." – Minister of external affairs Pranab Mukherjee
Japan: "We have acknowledged that the judgment has been made according to due process and pay respect to the legal procedures that the Iraqi government has taken. That said, what is most important in our view is to make this sentence not a new source of conflict but of reconciliation between the Iraqi people."[36] — Foreign Ministry Spokesman Tomohiko Taniguchi
Malaysia: "The international community is not in favour of the hanging and questions the due process that took place. We are surprised that the hanging went ahead notwithstanding. I think there will be repercussions. This is not the answer" - Foreign Minister Syed Hamid Akbar
Thailand: Kitti Wasinondh, a spokesman at the Thai Ministry of Foreign Affairs, said, "We are optimistic that it will not lead to any further violence." Former Thai Foreign Minister Surin Pitsuwan, a Muslim who served under the Democrat Party, said he expected the execution would increase tension in the war on terror because of Saddam's many followers.
South Africa: "South Africa remains convinced that his execution is not the panacea to the current political problems in Iraq, but could fuel violence in an already volatile situation," said Ronnie Mamoepa, the foreign affairs spokesman.
Austria: "Austria has always campaigned against the impunity of people in the highest positions of political responsibility and supports the effort for an effective international penal jurisdiction. At the same time Austria rejects the death penalty as a matter of principle and stands for its worldwide abolition. This applies without exception and cruelty of the committed crime. Saddam Hussein's guilt in oppressing his own people, the assassination of political enemies and innocent civilians is undoubtedly documented. However, Austria's stance against the death penalty also applies in this case." - Austrian Ministry of Foreign Affairs Press Release
France: "France calls upon all Iraqis to look towards the future and work towards reconciliation and national unity. Now more than ever, the objective should be a return to full sovereignty and stability in Iraq. France, which like the rest of its European partners advocates the universal abolition of capital punishment, notes the execution of Saddam Hussein on Saturday. That decision was made by the people and the sovereign authorities of Iraq." — French Foreign Ministry
Germany: "Saddam Hussein was sentenced by an Iraqi court, and this verdict has been executed. We do respect this verdict. However, it is known, that the Federal Government of Germany is against capital punishment. On a day like this, my thoughts are foremost with the many innocent victims of Saddam Hussein. I do wish for the Iraqi people that it will find its way without violence and in peace." — German chancellor Angela Merkel
Netherlands: "It's understandable that Saddam Hussein received the most severe punishment under Iraqi law. Nevertheless, we are opposed to the death penalty, which is inhumane and barbaric; even in Hussein's case, the sentence should not have been carried out." [65] — Deputy Prime Minister Gerrit Zalm
Portugal: "The Portuguese Government reaffirms its total opposition to death penalty in all cases and circumstances."
Serbia: "We have seen that the situation in Iraq is chaotic. I am afraid this might cause even worse consequences. Serbia strongly objects to the death penalty. Calls against execution made by non-governmental organization such as Amnesty International should have been accepted"[70] — Minister of Justice Zoran Stojković
Switzerland: "Saddam Hussein was a criminal, but the DFA disapproves of his execution. ... Switzerland advocates the abolition of the death penalty in the context of both its multilateral and in its bilateral diplomacy."[72] — Federal Department of Foreign Affairs press release
Russia: "Regrettably, repeated calls by representatives of various nations and international organizations to the Iraqi authorities to refrain from capital punishment were not heard. Saddam Hussein's execution can lead to further aggravation of the military and political situation and the growth of ethnic and confessional tensions."[69] — Foreign Ministry spokesman Mikhail Kamynin
from Wikipedea
India: "We had already expressed the hope that the execution would not be carried out. We are disappointed that it has been." – Minister of external affairs Pranab Mukherjee
Japan: "We have acknowledged that the judgment has been made according to due process and pay respect to the legal procedures that the Iraqi government has taken. That said, what is most important in our view is to make this sentence not a new source of conflict but of reconciliation between the Iraqi people."[36] — Foreign Ministry Spokesman Tomohiko Taniguchi
Malaysia: "The international community is not in favour of the hanging and questions the due process that took place. We are surprised that the hanging went ahead notwithstanding. I think there will be repercussions. This is not the answer" - Foreign Minister Syed Hamid Akbar
Thailand: Kitti Wasinondh, a spokesman at the Thai Ministry of Foreign Affairs, said, "We are optimistic that it will not lead to any further violence." Former Thai Foreign Minister Surin Pitsuwan, a Muslim who served under the Democrat Party, said he expected the execution would increase tension in the war on terror because of Saddam's many followers.
South Africa: "South Africa remains convinced that his execution is not the panacea to the current political problems in Iraq, but could fuel violence in an already volatile situation," said Ronnie Mamoepa, the foreign affairs spokesman.
Austria: "Austria has always campaigned against the impunity of people in the highest positions of political responsibility and supports the effort for an effective international penal jurisdiction. At the same time Austria rejects the death penalty as a matter of principle and stands for its worldwide abolition. This applies without exception and cruelty of the committed crime. Saddam Hussein's guilt in oppressing his own people, the assassination of political enemies and innocent civilians is undoubtedly documented. However, Austria's stance against the death penalty also applies in this case." - Austrian Ministry of Foreign Affairs Press Release
France: "France calls upon all Iraqis to look towards the future and work towards reconciliation and national unity. Now more than ever, the objective should be a return to full sovereignty and stability in Iraq. France, which like the rest of its European partners advocates the universal abolition of capital punishment, notes the execution of Saddam Hussein on Saturday. That decision was made by the people and the sovereign authorities of Iraq." — French Foreign Ministry
Germany: "Saddam Hussein was sentenced by an Iraqi court, and this verdict has been executed. We do respect this verdict. However, it is known, that the Federal Government of Germany is against capital punishment. On a day like this, my thoughts are foremost with the many innocent victims of Saddam Hussein. I do wish for the Iraqi people that it will find its way without violence and in peace." — German chancellor Angela Merkel
Netherlands: "It's understandable that Saddam Hussein received the most severe punishment under Iraqi law. Nevertheless, we are opposed to the death penalty, which is inhumane and barbaric; even in Hussein's case, the sentence should not have been carried out." [65] — Deputy Prime Minister Gerrit Zalm
Portugal: "The Portuguese Government reaffirms its total opposition to death penalty in all cases and circumstances."
Serbia: "We have seen that the situation in Iraq is chaotic. I am afraid this might cause even worse consequences. Serbia strongly objects to the death penalty. Calls against execution made by non-governmental organization such as Amnesty International should have been accepted"[70] — Minister of Justice Zoran Stojković
Switzerland: "Saddam Hussein was a criminal, but the DFA disapproves of his execution. ... Switzerland advocates the abolition of the death penalty in the context of both its multilateral and in its bilateral diplomacy."[72] — Federal Department of Foreign Affairs press release
Russia: "Regrettably, repeated calls by representatives of various nations and international organizations to the Iraqi authorities to refrain from capital punishment were not heard. Saddam Hussein's execution can lead to further aggravation of the military and political situation and the growth of ethnic and confessional tensions."[69] — Foreign Ministry spokesman Mikhail Kamynin
Saturday, December 30, 2006
心が通う時、ほっとする
韓国人の友人Hにあい、彼女の家にいって食事を作って食べた。例によってそば(今回は人参+白菜)と、鳥とタマネギを甘辛く煮たもの。鶏肉は、もものところで、でも例によって骨はそのまま(おそらくオーブンに入れて焼くことを想定されている)なのでフンとかハンとかいいつく肉をそいで切る。 喜んでくれて良かった。韓国では男性は普通料理をせず、ただデンと構えて待っているそうで、彼女の友人が日本人の彼氏に初めて家に招かれたとき、料理を作ってもらってやたら感動したらしい。
warsawであまりにも人とずっといすぎたせいか、wienに来てしばらくまともに人と向き合って会話してなかったことも相まって、口が過ぎるぐらいあれやこれや話す。ルームメイトが何を言っても理解してくれず、自分の言葉を通じて相手の心に届かないのかと本当に愕然とした思いを感じていたから、自分の考えを喋り、相手が応え、そうして互いの心が通っていく瞬間に本当に嬉しく思う。自分の言葉は死んでいなかった。よかった。ずっと心配していた。
日本ではPerforming Artsを「舞台芸術」と訳している。これは間違いでないのか?という最近の疑問を話す。ヴィジュアルアートにおけるPerformance Artは、まずそれ自体に歴史が在り、またそれとは別にダンスの歴史が在り、後者が前者に対して影響を与えて混濁した状況が存在しているのが現在のコンテンポラリーダンスなのではないか。という話をすると、「私たち(韓国)はヨーロッパを追いかけてヨーロッパの言葉を持ってきたけど、その意味をちゃんと理解していないのではないか」と返される。何となく、それとして、運んできて、よく分かってないのに、分かった振りをして使っている。彼女は例として、「コンタクトインプロヴィゼーションのジャム、とかパートナリングとか、私たちはそれをそのまま(訳さず、同じ音を用いて)使っている。でも誰がその意味を知っているんだろう。」考える(考えだす)ことが大事なのだと同意する。
「でも何処から考えたらいいんだろう」という彼女に、「僕は哲学を勉強していて、でもそれは哲学を学ぶことが大切ということではなくて、ともかくも哲学を学ぶことから、考えること、どうであれ、自分のペース、リズムで、自分なりに考えることが、ともかくも新しい示唆を与え、それ自体はクリエイションとして成立しないけれども、クリエイションをとても助けることになる」と応えたら、「そうか、じゃあ何もやってもいいんだ」と喜ばれる。(こういうずいぶん抽象的な概念を伝えられるようになってきたというのは、少しでも英語を喋るのに慣れてきたんじゃないかなぁ。)
前後するけれども、それから、ともに、自国の若手を育てず、大御所アーティストを海外から呼ぶことに金をつぎ込みまくっている自国の文化政策を嘆く。いくつかの他のアジアの国の方が、たとえそれが「モダンだ、コンテンポラリーでない」とか、どういわれようが、ともかくも自分たちの価値観を提示しようと必死で、それに対してその周りがしっかり支えているのではないか。そちらのほうがいいなぁ、と共にうなずく。
友人は本当に大切だ。友人がいて、彼・彼女が頑張っているから、自分も頑張っていける。何が大事って、やっぱりそれが一番大事だ。ただ偉そうなことを言って、偉そうな態度をして、それに群がる人からえさを与えられて生きてくようには絶対になりたくない。
warsawであまりにも人とずっといすぎたせいか、wienに来てしばらくまともに人と向き合って会話してなかったことも相まって、口が過ぎるぐらいあれやこれや話す。ルームメイトが何を言っても理解してくれず、自分の言葉を通じて相手の心に届かないのかと本当に愕然とした思いを感じていたから、自分の考えを喋り、相手が応え、そうして互いの心が通っていく瞬間に本当に嬉しく思う。自分の言葉は死んでいなかった。よかった。ずっと心配していた。
日本ではPerforming Artsを「舞台芸術」と訳している。これは間違いでないのか?という最近の疑問を話す。ヴィジュアルアートにおけるPerformance Artは、まずそれ自体に歴史が在り、またそれとは別にダンスの歴史が在り、後者が前者に対して影響を与えて混濁した状況が存在しているのが現在のコンテンポラリーダンスなのではないか。という話をすると、「私たち(韓国)はヨーロッパを追いかけてヨーロッパの言葉を持ってきたけど、その意味をちゃんと理解していないのではないか」と返される。何となく、それとして、運んできて、よく分かってないのに、分かった振りをして使っている。彼女は例として、「コンタクトインプロヴィゼーションのジャム、とかパートナリングとか、私たちはそれをそのまま(訳さず、同じ音を用いて)使っている。でも誰がその意味を知っているんだろう。」考える(考えだす)ことが大事なのだと同意する。
「でも何処から考えたらいいんだろう」という彼女に、「僕は哲学を勉強していて、でもそれは哲学を学ぶことが大切ということではなくて、ともかくも哲学を学ぶことから、考えること、どうであれ、自分のペース、リズムで、自分なりに考えることが、ともかくも新しい示唆を与え、それ自体はクリエイションとして成立しないけれども、クリエイションをとても助けることになる」と応えたら、「そうか、じゃあ何もやってもいいんだ」と喜ばれる。(こういうずいぶん抽象的な概念を伝えられるようになってきたというのは、少しでも英語を喋るのに慣れてきたんじゃないかなぁ。)
前後するけれども、それから、ともに、自国の若手を育てず、大御所アーティストを海外から呼ぶことに金をつぎ込みまくっている自国の文化政策を嘆く。いくつかの他のアジアの国の方が、たとえそれが「モダンだ、コンテンポラリーでない」とか、どういわれようが、ともかくも自分たちの価値観を提示しようと必死で、それに対してその周りがしっかり支えているのではないか。そちらのほうがいいなぁ、と共にうなずく。
友人は本当に大切だ。友人がいて、彼・彼女が頑張っているから、自分も頑張っていける。何が大事って、やっぱりそれが一番大事だ。ただ偉そうなことを言って、偉そうな態度をして、それに群がる人からえさを与えられて生きてくようには絶対になりたくない。
凄い嬉しい
僕が来たときにはオーディションが終っていた(死ぬほど悔しがった)、ウィーンのスカラーシップに、友人のAが受かっていたと知る。凄い嬉しい!! どこにも友達がいるのっていいなぁ…
僕も頑張らなくちゃ!!
僕も頑張らなくちゃ!!
Friday, December 29, 2006
youtubeはやっぱり偉大だなぁ
bruce nauman remake »bouncing in the corner«
これは"parole"の冒頭で使った。
Bruce Nauman - Stamping in the Studio
Bruce Nauman ARTE NAPOLI MADRE
やっぱり60年代/70年代のアートちゃんと勉強しなきゃだめだな。
この前京都に帰った時、先生にヨーロッパの最近の状況を話したら、「なんだそれ、Cageとかの時代に戻っただけじゃん」ていわれて、ははぁ。
(そういえばErwin Wurmをみにいったとき、先生が参加されてたころの京都のDというカンパニーは、本当によく勉強されていたのだな、としみじみ思った。)
これは"parole"の冒頭で使った。
Bruce Nauman - Stamping in the Studio
Bruce Nauman ARTE NAPOLI MADRE
やっぱり60年代/70年代のアートちゃんと勉強しなきゃだめだな。
この前京都に帰った時、先生にヨーロッパの最近の状況を話したら、「なんだそれ、Cageとかの時代に戻っただけじゃん」ていわれて、ははぁ。
(そういえばErwin Wurmをみにいったとき、先生が参加されてたころの京都のDというカンパニーは、本当によく勉強されていたのだな、としみじみ思った。)
メルロ=ポンティからベルクソンへ−言語論の場合−
武蔵大学のwebで清水誠先生の文章がよめるのです。
大学の内部雑誌用の文章なのかしら?
ともかくこういうの公開してくれるのって助かる。
全部よんでないけど、とりあえず2ページ目までから抜き書き(コピペ)。
凄く分かり易い。有り難い。
---
こうして「語は意味を持つ」(le mot a un sens) として「持つ」という観点から語について語り、語に内在する一種の力能を認めるならば、物的身体と精神との中間にあって両者を媒介し、主客対立図式を乗り越える立場を得ることができるであろう、とメルロ=ポンティはするのである。
引き続いて彼は、この経験は「閃光のように瞬間的なものであるが」、表現(expression)の実践によって我有化(approprier)することができることと、対象の命名(denomination)はそれの再認(reconnaissance)の後で生じるのではない、命名と再認とは同時に性起するのであり、両者はただ理性的(ratione)に区別されるだけであり、つまり同じ事態であることとを述べている。これらはいずれも事柄が知性直観の問題であることを示している。もっとも、知覚対象の「命名がそれの再認そのものである」とメルロ=ポンティは言うのであるが、これは知覚対象を包摂(subsumer)すべき概念が精神のうちに先在し、それが恣意的に名前と結び付くというのではなく、「語が意味を孕む(porte)」という意味である。
なにゆえに本来的な例が求め難いかと言えば、そのためには初めて言表されるべき言わば正統(autentique)なパロールとそのようなパロールに基づく二次的なパロールとを区別しなければならないからである。というのも、「語が意味を持つ」という命題が当てはまるのは前者のみに限られるからである。換言すれば、通常の経験的言語活動についてこの命題が主張されているのではないのである。ということは、言語論的脱構築の結果として提出されるであろう範疇表の形が、カントの提示した純粋理性のそれと大差ないものになる可能性があるということである。
したがって改めて提出されるであろうその表の資格についての解釈問題を別にすれば、重要な係争点としては、生まれ出ようとする状態(a l'etat naissant)にある未曾有の思想における、言葉と概念との後先関係の問題だけであると言えるのではなかろうか。
新たに生まれる思想の本質とは言うまでもなくそれの意味であるが、その思想の存在とはその言葉なのである。意味が先にあってそれの言葉が考えられるのではない。その言葉はその意味と同時に生まれるのである。言葉と意味との後先関係はどうかと言えば、両者は厳密に同時である。それどころか、言葉のうちに内在する意味、言葉に住み着く(habite)意味においては、言葉が先に立つかのように思われる。その言葉なしにはその意味は少なくとも完成しないのである。それは新しく創造される言葉であるから、新しい意味である。
これによって言われることは言語表現が持っている調子(トーン)とかアクセントとかの理解が、意味の基本的理解の初期的段階であるということである。これらはいずれもベルクソンが感覚=運動的(sensoriel-moteur)と呼んだような、意味の感性的理解が悟性的理解に先行しこれを基礎付けるのでなくてはならないということを言っているのである。それが感性的理解に基礎付けられた悟性的理解であってこそ、或る「言語表現が意味を持つ」ということが起きるのだというのである。この点に関してメルロ=ポンティは、言語表現と音楽や絵画における表現との間に差異を認めないのである。
われわれは音楽において楽器の素音は音楽的意味行為の素材であって音楽的意味と素材としての楽音とはレベルを異にすると言ったばかりであるが、音楽のなかに一度組み込まれた以上は、楽音は単なる素材であることを止め、その音楽の意味と不可分になるのである。音楽的意味が楽音に受肉するからである。絵画においては絵画的意味が絵の具に受肉する。同様に、演劇において役者が入神の演技をする場合には、役者は消えて役が現象することになる。
これらの場合と同様に言語表現においても、記号(signe)を意味作用(signification)が食い尽くすことになる。そして「語が意味を持つ」のはそのときなのである。記号としての語は意味を表象するのでも翻訳するのでもなくそれを現成するのである。即自存在としての語が対自存在化するのである。のだから、意味は語の外に超越的に存在するのではない。語に内在しながらそれに生命を与えるのである。語は意味の即自=対自存在にならねばならないのである。「パロールは思惟の衣服ではなくて、その身体である」と言われる所以である。
やがてバンヴェニストが論証するだろうように、 各国語体系が示す全体論的性格は、各国語体系内における語の能記と所記との有縁性を帰結するのである。したがって、例えばイヌとdogとの等価交換可能性を意味するような普遍的思惟(pensee universelle)は存在しない。またこれの換喩である規約的思惟(pensee conventionnelle)の典型たるアルゴリスム(記数法)は人間不在の自然を表しているが、これとても言語活動を通じて人間に関わる限り、すでに絶対的な意味では規約的ではないのである。「こうして厳密に言えば、規約的記号は存在しないのである。」
これらの諸言明が明示して余りあるように、『知覚の現象学』時期のメルロ=ポンティ言語論にはソシュール記号論の影響は皆無である。ソシュールの思想とのそれの関わりについては、『シーニュ』以降のテクストについて見なければならぬであろう。
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デリダが死んだのは2004年だったことを思い出しました。昨日のことのようで、もう2年もたつのです。
大学の内部雑誌用の文章なのかしら?
ともかくこういうの公開してくれるのって助かる。
全部よんでないけど、とりあえず2ページ目までから抜き書き(コピペ)。
凄く分かり易い。有り難い。
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こうして「語は意味を持つ」(le mot a un sens) として「持つ」という観点から語について語り、語に内在する一種の力能を認めるならば、物的身体と精神との中間にあって両者を媒介し、主客対立図式を乗り越える立場を得ることができるであろう、とメルロ=ポンティはするのである。
引き続いて彼は、この経験は「閃光のように瞬間的なものであるが」、表現(expression)の実践によって我有化(approprier)することができることと、対象の命名(denomination)はそれの再認(reconnaissance)の後で生じるのではない、命名と再認とは同時に性起するのであり、両者はただ理性的(ratione)に区別されるだけであり、つまり同じ事態であることとを述べている。これらはいずれも事柄が知性直観の問題であることを示している。もっとも、知覚対象の「命名がそれの再認そのものである」とメルロ=ポンティは言うのであるが、これは知覚対象を包摂(subsumer)すべき概念が精神のうちに先在し、それが恣意的に名前と結び付くというのではなく、「語が意味を孕む(porte)」という意味である。
なにゆえに本来的な例が求め難いかと言えば、そのためには初めて言表されるべき言わば正統(autentique)なパロールとそのようなパロールに基づく二次的なパロールとを区別しなければならないからである。というのも、「語が意味を持つ」という命題が当てはまるのは前者のみに限られるからである。換言すれば、通常の経験的言語活動についてこの命題が主張されているのではないのである。ということは、言語論的脱構築の結果として提出されるであろう範疇表の形が、カントの提示した純粋理性のそれと大差ないものになる可能性があるということである。
したがって改めて提出されるであろうその表の資格についての解釈問題を別にすれば、重要な係争点としては、生まれ出ようとする状態(a l'etat naissant)にある未曾有の思想における、言葉と概念との後先関係の問題だけであると言えるのではなかろうか。
新たに生まれる思想の本質とは言うまでもなくそれの意味であるが、その思想の存在とはその言葉なのである。意味が先にあってそれの言葉が考えられるのではない。その言葉はその意味と同時に生まれるのである。言葉と意味との後先関係はどうかと言えば、両者は厳密に同時である。それどころか、言葉のうちに内在する意味、言葉に住み着く(habite)意味においては、言葉が先に立つかのように思われる。その言葉なしにはその意味は少なくとも完成しないのである。それは新しく創造される言葉であるから、新しい意味である。
これによって言われることは言語表現が持っている調子(トーン)とかアクセントとかの理解が、意味の基本的理解の初期的段階であるということである。これらはいずれもベルクソンが感覚=運動的(sensoriel-moteur)と呼んだような、意味の感性的理解が悟性的理解に先行しこれを基礎付けるのでなくてはならないということを言っているのである。それが感性的理解に基礎付けられた悟性的理解であってこそ、或る「言語表現が意味を持つ」ということが起きるのだというのである。この点に関してメルロ=ポンティは、言語表現と音楽や絵画における表現との間に差異を認めないのである。
われわれは音楽において楽器の素音は音楽的意味行為の素材であって音楽的意味と素材としての楽音とはレベルを異にすると言ったばかりであるが、音楽のなかに一度組み込まれた以上は、楽音は単なる素材であることを止め、その音楽の意味と不可分になるのである。音楽的意味が楽音に受肉するからである。絵画においては絵画的意味が絵の具に受肉する。同様に、演劇において役者が入神の演技をする場合には、役者は消えて役が現象することになる。
これらの場合と同様に言語表現においても、記号(signe)を意味作用(signification)が食い尽くすことになる。そして「語が意味を持つ」のはそのときなのである。記号としての語は意味を表象するのでも翻訳するのでもなくそれを現成するのである。即自存在としての語が対自存在化するのである。のだから、意味は語の外に超越的に存在するのではない。語に内在しながらそれに生命を与えるのである。語は意味の即自=対自存在にならねばならないのである。「パロールは思惟の衣服ではなくて、その身体である」と言われる所以である。
やがてバンヴェニストが論証するだろうように、 各国語体系が示す全体論的性格は、各国語体系内における語の能記と所記との有縁性を帰結するのである。したがって、例えばイヌとdogとの等価交換可能性を意味するような普遍的思惟(pensee universelle)は存在しない。またこれの換喩である規約的思惟(pensee conventionnelle)の典型たるアルゴリスム(記数法)は人間不在の自然を表しているが、これとても言語活動を通じて人間に関わる限り、すでに絶対的な意味では規約的ではないのである。「こうして厳密に言えば、規約的記号は存在しないのである。」
これらの諸言明が明示して余りあるように、『知覚の現象学』時期のメルロ=ポンティ言語論にはソシュール記号論の影響は皆無である。ソシュールの思想とのそれの関わりについては、『シーニュ』以降のテクストについて見なければならぬであろう。
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デリダが死んだのは2004年だったことを思い出しました。昨日のことのようで、もう2年もたつのです。
Thursday, December 28, 2006
Erwin Wurm展
ついにいきました。MQ。
よかったというか、勉強になった。やっぱりものの可塑性(記号としても)について、凄い遊んでいて、またその可塑性自体をちゃんと分かり易く提示しているところとか、大御所のアーティストの仕事ってやっぱりしっかりしてる。太った家のオブジェの中に入ると、3Dエフェクトかけてアニメーション化されたその家が、「私は家か、家なのだろうか。家であれば外に在るべきだ。何かをまもるべきだ。いや、アートなのだろうか。アートだ。建築家によって、あるいはアーティストによってつくられたアートだ。」みたいにひたすら自問自答する映像が流されている。これは、「ものに語りかけられる」という現象学的なアプローチをすごいわかり易くヴィジュアル化しているように感じた。差異(太っている)によって、ものに絡みとられていく。すごいなぁ勉強になる。
でもヴィジュアルアーティストの仕事をみるとやっぱり、眼の見えない人にはどうアプローチできるのだろう、と、当たり前のことなんだけど、どうしても頭に引っかかりつつ見ることになる。
同時にやっていたPop Art and Conceptual Artは、もともとそんなに好きでもないので、まあウォーホルとかラウシェンバーグの作品とか、生では見たことあまりないからヘーとか言う感じで一応みただけ。でもJohn Cageの講義(Lecture on Nothing)とか、オブジェま(Not Wanting to Say Anything about Marcel2)であって、へーCageってこんなこともしてたんだなーと。だけどコンセプチュアルアートの類いは、もうひたすら文章ばっかりで、これってあまり見る人にむきあってないような印象で、楽しめなかった。
Bruce Naumanの作品が夏に来たときはあったので、まだないかなぁと思ったけど、なかった。残念。Naumanの資料を探したい。
今日もcafe blueorange。明らかにすいている。コーヒーまずいからだろうな。でも店員のお姉さんがいつも優しい。ホッとする。
よかったというか、勉強になった。やっぱりものの可塑性(記号としても)について、凄い遊んでいて、またその可塑性自体をちゃんと分かり易く提示しているところとか、大御所のアーティストの仕事ってやっぱりしっかりしてる。太った家のオブジェの中に入ると、3Dエフェクトかけてアニメーション化されたその家が、「私は家か、家なのだろうか。家であれば外に在るべきだ。何かをまもるべきだ。いや、アートなのだろうか。アートだ。建築家によって、あるいはアーティストによってつくられたアートだ。」みたいにひたすら自問自答する映像が流されている。これは、「ものに語りかけられる」という現象学的なアプローチをすごいわかり易くヴィジュアル化しているように感じた。差異(太っている)によって、ものに絡みとられていく。すごいなぁ勉強になる。
でもヴィジュアルアーティストの仕事をみるとやっぱり、眼の見えない人にはどうアプローチできるのだろう、と、当たり前のことなんだけど、どうしても頭に引っかかりつつ見ることになる。
同時にやっていたPop Art and Conceptual Artは、もともとそんなに好きでもないので、まあウォーホルとかラウシェンバーグの作品とか、生では見たことあまりないからヘーとか言う感じで一応みただけ。でもJohn Cageの講義(Lecture on Nothing)とか、オブジェま(Not Wanting to Say Anything about Marcel2)であって、へーCageってこんなこともしてたんだなーと。だけどコンセプチュアルアートの類いは、もうひたすら文章ばっかりで、これってあまり見る人にむきあってないような印象で、楽しめなかった。
Bruce Naumanの作品が夏に来たときはあったので、まだないかなぁと思ったけど、なかった。残念。Naumanの資料を探したい。
今日もcafe blueorange。明らかにすいている。コーヒーまずいからだろうな。でも店員のお姉さんがいつも優しい。ホッとする。
Wednesday, December 27, 2006
やっぱり人の暖かさっていいよね
コーヒーはまずいけど店員が優しくてネット使えるカフェ。やっぱ人の温かさって落ち着く。クリスマス休暇のせいで、2日間そとにあそびにこれなかったから、息付ける。
ペンパル応募はさらに2通きて、あまりの効果に驚く。でも授業無いときにドイツ語を読む機会を与えられるのは、本当に励みになり助かる。のんびりマイペースで続けよう。
と思ってたらまた一通きた。もういい加減無理だ。4人で限界。ごめんなさい。
ペンパル応募はさらに2通きて、あまりの効果に驚く。でも授業無いときにドイツ語を読む機会を与えられるのは、本当に励みになり助かる。のんびりマイペースで続けよう。
と思ってたらまた一通きた。もういい加減無理だ。4人で限界。ごめんなさい。
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