友人のすすめで、
Candice Breitz "Working Class Hero"(A Portrait of John Lennon)
をBawag Foundationにてみる。20人弱の人がイヤホンでジョンレノンの歌を聴きながら、歌っている、その顔がずらりと横一列に並んでいる。とても面白かった。
"John Lennnon"についての個人的な記憶が彼の心に絡み付いている(まさに「思い出」によって過去から絡みとられる)その顔。に、対峙させられる鑑賞者。歌う顔は歌う顔のその向こうへと鑑賞者の視線を誘う。
そうなのである。本来アートというのはいずれにせよ、現象の向こうへと見るものをいかに連れて行くか、それが裁量なのである。ところが、ここのところのコンテンポラリーダンス(のつまらない人たち)は、ただ現象をどう浮び上がらせるにしかその志向が及んでいない。こうした状況に対する反発が、僕の次回作のコンセプトにおいて非常に重要な位置を占めてているのだった。再確認した。
ということは、僕がやろうとしていることは、自分(アーティストとしてそこにいる)の在り方、構造を提示すること、つまり本来特に触れることなくともそうあるものをわざわざ「そうあるんですよ」と言葉にして言い表すような、いわばこっ恥ずかしいほどの、観客への「丁寧さ」(あるいはおせっかい)なのである。
思えば既に前作"parole"の時点で、かのO氏が東京公演に来て下さって、「なんであんなことをわざわざ喋るんだ。あれがいらん。」とさすが厳しい先生のお顔でおっしゃって下さって、やはりその時、Sさんが、「まあそれが世代の違いだよね」とおっしゃっていたのは、やはりこういう違いであると思う。 構造は構造そのものとして提示すること、それで十分というのがO氏、そしてその世代の方々の基本的な姿勢であるのだろうと思う。(そしてO氏の手前である寺山などは、構造について「ここにこういう構造が在ります」といっていた人である。歴史的なつながりの上にあることももちろんである。ただし僕の場合はもっとvisual artsの影響が既に複雑に絡み付いた世代にあるので、寺山と同じやり方はやろうとしても出来ない。)
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友人の次回作のアイディアを聴き、やはりその面白さに圧倒される。まだこれからの作品なのでハッキリとかけないけれども面白い。「ポストコンセプチュアル」という言葉をつかって、「やっぱりこれからはただコンセプトがあって、それだけじゃだめだよね。」という。本当にそう思う。けれども「コンセプトを動的に扱っている作家に興味がある」と僕が言うと、「動的であるとか静的であるということははじめ君の主観のうちにあるんじゃないの」と言われる。アイタタ。やっぱりまだまだ青いなぁ。
Thursday, January 18, 2007
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