レモンをしぼり生姜湯を飲み、蜂蜜をなめる。ここで食い止めねば。
休暇のつもりであっても結局やることがある。友達と、「こんなに仕事してるのにお金にならない状況はとにかく早く脱しないと、しょうがないよね」と夜話す。 がんばるがんばる。
無料のコンタクトのws、高橋さんという方。独り言をよく喋られる先生。でも基本的なことをちゃんとやっていく感じで、好印象。身体の物理性と、感覚のずれ、が味わえるのもコンタクトの面白いところだな、でも僕はやっぱり苦手(be not good at)だな、と思う。
民主党が勝ったことで、本当に米軍はイラクから撤退するのだろうか?もしそんなことになれば、誰もが考えていた最悪のシナリオになる。自分の国(或は世界?)を守るためにという名目で人を殺しまくりに行って、自分たちが死にまくってきたら、「もーやーめた」なのか。どちらかといえば、支持した国民こそ罪があるのではないのか?ぐるぐる。
それから、以下飛行機の中で書いていたもの(殆ど引用)。
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""""""""引用ここから
ただし、わたしたちの日常を編成している<物語>は、たしかにあるまとまりを欠いたままでは十分に機能しないが、それじたいは穴だらけで、ところどころほつれており、さらに他のそれと整合しないところもある大まかなものでしかない。社会学者のアルフレッド・シュッツがかつて用いたことばを借用すると、その構成は同質的でも一枚岩的でもなく、多元的な領野を雑多なままに混在させている。現実はいくつかの<物語>によって折り合わされながら、なおかつそれを乱反射させる様な塵やざわめきに満ちているし、しばしば一つの相貌へと硬直してゆくようにみえながら、あるいは定型的な<物語>の退屈な再生産でしかないようにみえながら、しかしその過程で「突然意表をつく様な下絵が残り糸や新しく縒りあわされたいとで編まれると言った形で」(H・P・トウルン)知らぬ間に地すべりを起こしていもする。これはまるで薮のようなものなのだ。だから、単一の視点から俯瞰出来るような現実こそ抽象的というか空想的と思った方が良い。
しかし薮のようなこうした現実は雑多でありながらも凝集し、ゆるゆるでありながらも織物のようなまとまりを持つ。それは通常はそれとしてはことさらに意識されないものだが、澱のようなある安定的な部分を含んでいる。そしてそれにわたしたちはふだん「ふつう」とか「あたりまえ」とか「自然な」といった感覚でとくにそれとして意識することもなくふれている。
"""""""引用ここまで 鷲田清一「悲鳴を上げる身体」P.165
この本はまるでスルメのように何度読み返しても、役に立つ。鷲田さんの凄いことはここまで丁寧に平易に、こんな難しいことを表現されていることだ。「学ぶ」ことが単なるキャリアの積み重ねとして消費されるものでないことを、今一度思い返させてくれる。考えることは世界へのふれ方を多様にし、生きるすべを無理無く検討する場を与えてくれる。
Friday, November 17, 2006
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