Visual Artistと共に作業を過ごすと、彼が確かにVisualが必要で、それがなければ何も志向出来ない事実に愕然とする。もちろん全てのアーテイストがそうであるとは言えないが、彼の場合はそうで、例えばこちらが会話で振り付けのイメージ(想定される、期待されるぼんやりとした在り方)を提示しても、彼には、それが確かな「イメージ」(画像)としては成立しないのである。なぜなら、舞踊手は、そうした語りの仲に既に身体的なリズム(例えば呼吸)や感覚を刷り込ませているからで、それは同じダンサーという生き物の間でしか伝わり得ないものだからだ。
今日のコンテンポラリーダンスに置けるヴィジュアルアーティストの活躍は、誰もが既に知るところである。僕自身はそうしたアーティストの作品に多く触れてきたかどうかは定かでないが、少なくとも僕自身のクリエイションの場面にも、アーティストとしての交流や、様々なワークショップを通じて、直接なり間接なり影響を与えている。
いや、見回せば、実際のところ、いかにコンテンポラリーダンスがそのヴィジュアルによって社会に流通されているか。舞台写真を多用したアドはどこの都市にもあふれ帰っている。スペクタクルの問題は決して切り離されない。
けれども、である。舞踊家の感覚、その繊細さが切り開く様々な知との交差点は、決して視覚だけに還元出来得るものではないだろう。僕らの世代が考えるべき(先行するアーティストから引き継いで考え続けるべき)問題が、きっとこの辺りにある。
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Real Tokyoにあった浅田先生の記事が面白かったです。
ミニマル・ミュジサーカス
——アルディッティ・カルテット+白井剛によるケージ
Thursday, September 28, 2006
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