今回の秋葉原の事件について僕(藤田一)としては今ひとつピンとこないところがある。
やはり離れてくらしていると、いくら母国のことといえあまり実感がない。
とはいえ、その在り方はまさに僕がそこにいたとき感じていた日本の人々のちょっと「おかしな」傾向に対する違和感を再確認させるものだった。ちょうど内田先生が分かりやすく書いて下さっている。
内田樹の研究室: 記号的な殺人と喪の儀礼について
ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること。
これは事実レベルの問題ではなく、物語レベルの問題である。
そして、この「ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること」は私たちの社会では「政治的に正しいこと」として、このような事件についてコメントしている当の社会学者や心理学者たちによって、現につよく推奨されているのである。
「ハラスメント」にはさまざまなヴァリエーションがあるが、私たちがいま採用している原理は、あるシグナルをどう解釈するかは解釈する側の権限に属しており、「加害者」側の「私はそんなつもりで言ったんじゃない」というエクスキュースは退けられるということである。
「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。
「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。
これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。
その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。
たしかにそのような記号操作をしていれば、世界はたいへんシンプルになる。
私たちはメッセージを適切に解読するために、実際にはたいへん面倒な手続きを踏んでいる。
言葉が語られたときの口調や表情、身ぶりといった非言語的シグナル、前後のやりとりとのつながり、どういう場面でどういう立場からの発言であるかという「文脈」の発見、発言者のこれまでの言動の総体の中に位置づけてその暗黙の含意や事実認知上の信頼性、遂行的な確実性を査定すること・・・そういった一連の作業を経てはじめて、無限の解釈可能性のうちから、とりあえずもっとも適切と思われる解釈にたどりつくことができる。
これは面倒な仕事である。
特に、「おそらく『こんなこと』をいおうとしているのであろう」という暫定的な解釈に落ち着きかけたところで、その解釈になじまないようなシグナルに気づいて、自分がいったん採用した解釈を捨てて、もう一度はじめから解釈を立て直す、というのは心理的にはたいへんむずかしい。
この面倒な仕事をしないですませたいという人がふえている。
ふえているどころか、私たちの社会は、今ほとんど「そんな人」ばかりになりつつある。
目に付くすべてのシグナルを、「ひとつのできあいの物語」を流し込んでしまえば、メッセージをそのつど「適切に解釈する」という知的負荷はなくなる。
メディアで「正論」を語っている人々の中に「話の途中で、自分の解釈になじまないシグナルに気づいて、最初の解釈を放棄する」人を私は見たことがない。
この二十年ひとりも見たことがない。
これはほとんど恐怖すべきことであると私は思う。
知的負荷の回避が全国民的に「知的マナー」として定着しているのである。
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