先週の音楽の歴史の授業の中で、先生が、なぜPost-modern music(おそらく名称としてのPost modernであり、Post modernismとしての音楽とは異なると考えるべきだろう)としてスティーヴ・ライヒなどが出てきたかを簡単に説明してくれた。つまり20世紀初頭にある現代音楽-modern musicが難解すぎてpublicにとってしごくboringであったということ、言い換えれば現代音楽はpublicに向かい合っていなかったということなのだ。
日本の多くのコンテンポラリーダンスがcriticismを欠いてchildishであるのも、これは同じことなのではないか。
日本の多くのアーティストも、またオーガナイザーも、publicに大して非常にネガティヴである。多くがやっているのは、自分たちの価値観の押しつけ。「これは面白いからあなたもみた方がいい」という論理でものごとがまわっていて、"どうやって"問題意識を伝えていくのか芸術的かつ社会的なアプローチへの意識が不足している。結果として、publicにとって「好きな人たちが集まってやっていること」になってしまう。いかに文化政策に従事する人々が政治的取り組みを続けたとしても、この点が変わらなければ社会的理解を得ることは難しく、時を経るにつれ助成金の削減など分かりやすい形でリアクションがあらわれるだろう/現時点でもあらわれはじめている。
Ultima Vezがベルギーの多くの若者にとってあこがれの存在であるという話を聞いたが、日本の状況がそこからいかに遠いかである。(Ultima VezのDVD Boxが発売されたら皆が買いに走ったそうな)
猥雑な表現ではあるが、マスターベーションをやめてセックスをしなければならない。引きこもって「でも私たちは頑張ってこんなにすごいことをしているんです」とぶつぶつつぶやく代わりに、家の外に出て誰かと一緒にコーヒーでものみにいくべきだ。
申し訳ないが日本で隔年開かれている大きなコンペにまるで新鮮味がなく、同じアーティストが何度もノミネートされているのをみると、悲しい気分になってくる。
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